Category: Opinion

様々な意見・異見。

何ですか?

本職は鍼灸師だが、生活費は翻訳で稼いでいる。今回翻訳者の立場から2-3点を指摘したい。

 どの分野でも同じだが、専門家しか分からない用語もあり、専門家と一般ン人は違った解釈する用語もある。最悪の場合異なった文化圏の人が同一用語を全く別の形で理解する。当たり前だ。しかし、これを忘れる人は案外に多い。例えば私は自宅で夕食の時「座りましょう」と言えば当然正座の事を指している。故郷で同じ事を言えば当然椅子に腰を掛ける事を意味する。同一人物が同一言葉を使って異なった意味を表す。当たり前の事であっても、使用する言葉を越える情報がない限りに伝えたい意味を正しく理解する事が非常に難しい。

 東洋医学の分野には科学に比べて曖昧な表現が多いから、「使われる用語の意味合を煩い程明記する」事を進めしたい。東洋医学関連文章を翻訳し、良く依頼主から質問も来る:瘀血〔例〕は英語でどう表現するか。海外では西洋医学的立場からアプローチされる事が多く、本来中国語の概念を解釈する可能性は幾つもある。実はこれに関して世界的権威が盛んに議論するところだ。

 東洋医学に関して中国の思想が世界を支配している。同じ東洋医学が日本に於いて1500年にも及ぶ歴史に於いて独自の発想を生み出したのは決して少なくないが、世界に殆ど知られていない。その理由は上記の表現が曖昧さと文章力の貧弱さにもある。「ほら、あれだよ」のような発言は日本に来る前に意識するような形で聞いた事ない。そして、そう言うことを言わざるを得ないのは心を痛めるが、日本語で書かれている専門書や学術論文の表現力が乏しいものが多い(私は言える立場ではない!)。ならば翻訳される日本語の元本が非常に少ない事も驚かない。以前にも指摘した事あるが、日本は東洋医学に関して世界に向けて大事な情報発信地であるべきだと思うから、情報を伝達する「言葉」をもう一度考え直す必要あるだ。

「翻訳者はBookfinderである」

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つい最近まで軍隊では未知の地域での進路を探るために「スカウト」や「path finder」と呼ばれる者を使ったという。(path・finder n.[count]one who finds a way, esp.through wilderness or unexplored area.  RANDOM HOUSE WEBSTER`S DICTIONARY of American English) 彼らは文字どおり、普通の人間には見えない道を発見できる能力を持っていた。

 最近私が参加したある国際翻訳会議において、複数のセッションで話題になった問いがある。それは「つまるところ翻訳者の仕事、職務とは一体何だろうか」というものだ。この問いの答えは一見簡単であり、明白に思われたが、実際には出席した翻訳者や翻訳会社の代理人からは数多くの、極めて多様な答えが提出された。この事をきっかけとして、私は以前から表現したいと感じていたことをこの小さな記事にまとめることにした。つまり、翻訳者は上記のpath finderと類似する役割をもつ“bookfinder”であるべきではないか(もしかするとそちらの役割の方が主かも知れない)、ということだ。以下はその簡単な記述である。

 私は既に18年間フリーランスの翻訳者として仕事をしてきているが、その間ほぼ全ての時間を、ある言語で書かれた意味をもう一つの言語に移し変える、という作業に費やしてきた。「翻訳」といわれるものだ。もっとも時として原文の質が悪かったり曖昧だったりする場合には、書き換えたり創作することすらあったが。しかし、基本的な考え方は常にA(の言語)をB(の言語)に変換することである。過去十数年間にこの仕事を通して知り合った仲間の中で、このことに疑問を持ったり異義を唱えるものはほとんどいなかった。これは紛れもなく翻訳者の仕事なのだ。

 しかし、得意分野を持っている翻訳者なら、プロとして専門分野についてかなりの量の読書をこなしているだろうし、他の分野についても視野を広げるために興味を持った本を読むだろう。また、個人的に何か研究していればさらに多くの本を読むに違いない。このことが、翻訳者に独特の立場を与えるのではないか、と私は考ている。翻訳者は単に2つ、又はそれ以上の言語を、専門家として利用し評価する能力を持っているだけでなく、ある特定の題材に関して、これらの言語で書かれている関連書(レファレンス)を読むはずだ。それらの中には評価の高い本もあるだろうが、一般的な評価が存在しない場合がほとんど、といってよいだろう。この場合、翻訳者自身がそれらのレファレンスについて言語的、技術的に評価することになる。

 これは私見だが、現在市販されている翻訳書を見て、その選択が専門的知識に基づいてされている、とは思えないものがかなりある。このような場合、どの本を翻訳出版するかという出版社が下す決定は、かなり疑わしい情報や推薦に基づいて行われたのではないか、とすら思えてしまう。その結果われわれ一般読者にはかなり偏った、そして当然ながら、いかに沢山売るかという利益志向に基づいた出版物が提供されることになる。このことは、われわれが健全な世界(観)にアクセスする機会を大幅に限定することになってしまうのではないだろうか。

 一方、今日インターネットの普及によって、膨大な情報が極めて短時間で更新されていく「情報ハイウェイ」へアクセスすることができるようになった。しかし、この恐ろしいほどの情報量へのアクセスは、書籍が提供できる明確な、実用的な、包括的なそして興味ある情報へ視野を塞いでしまう可能性もある。私としては、読書は楽しみでもあるべきだ、と思っているのだが。つまり、インターネットが情報収集の手段として大変有益であるのを認めた上で、一体誰が高速道路(=インターネット)に面して建てられた家に住みたいと思うだろうか、という疑問がわいてくるのだ。私個人としては小さな裏道が好みである。ここに書籍の出番があるのではないだろうか。本を出版するのはウェブサイトを更新するより、遥かに時間がかかる。それは本の方が必ず、幾分か「遅れている」ということを意味しているのだが、それによって本の持っている価値が損なわれるとは思えない。

 私は日本在住のドイツ人だ。日本では町の普通の書店で、日本語に翻訳されたドイツ文学・科学などの本が無数に売られている。しかし、ドイツに帰国した折に大規模の書店を見てまわっても、ドイツ語に翻訳された日本の本は片手で数えられるくらいしか見つけられない。数年前、東京国際ブックフェアを訪れて、ドイツの出版社のブースに立ち寄った際、ドイツで日本の本を翻訳出版することに興味を持っているか、と質問してあっさり断わられたことがある。つまりこうだ。「いいえ、何故でしょうか。当社は既に2冊も出版したでしょう?」。これが毎年ドイツ国内で新刊を何千冊も出版する国の妥当な対応とは到底思えないのだが。その結果、世界の国々に経済で大きな影響を及ぼすスーパーパワーである日本は、相変わらず他の国々の人にとって、知的な面ではブラックホールのような未知の領域にとどまっている。これだけ情報ハイウェイがわれわれの生活深く浸透しているにもかかわらず、である。私にはその理由は、ネット上のバーチャルな資料とは違う、本のような手に取れる実体としての情報の少なさにある、と思えるのだ。

 ここに、翻訳者が国際理解のために本当に貢献できる分野があるのではないだろうか。翻訳する価値のある本を選び出す、推薦する役割が。場合によってはある本を推薦する翻訳者は、同時にその翻訳を担うことも考えられる。多くの場合、これは翻訳者にとって有利であるだけでなく、読者にとっても有益なのではないだろうか。

足の事再認識する --- 裸足

腰も頸も痛くなり、動きが不自由になったり、全身の安定感が欠けている。そして肉体的の安定感のみならず精神的の安定感もいま一足りない。主に体だが、心も「ふらふら」する。場合によって患者が「めまい」=ふら付きを訴える。

案外可能性のある原因として視野に入らないのは「足」です。

文明社会は系統的に「足を馬鹿にしてしまう」と私は思う。要するに、所謂文明のある場所 = 町では殆どの領域が人工的に平らにされた:歩道、車道、広場など、建物中、乗り物の中・・・どこでも。おまけに文明人は朝から晩まで文明の象徴の一つとなるファッションに属する「靴」と言う道具を足につけるため、足底の環境は常に一定して、刺激を殆ど受けない。ファッション性の高い靴をはいって、異常な姿勢(ハイヒールなど)から生まれる異常な刺激を除けば。

ただし、人間の場合二本の脚の足底は体重を受けて上手に地面に分配する仕事と同時地面の特徴や重心の動きなどを迅速かつ正確脳に伝えるために出来ている。そのような刺激を排除するとこの刺激を処理するためにプログラムされている脳が飢えてしまう。看護に携わる人なら誰に聞いても分かるような事実は、今まで元気なお年寄りが何かの理由で暫く寝たきりになると、2-3週間さえあればまるで別人になってしまう - つまり「ぼける」。

よって、自分のあしをもう少し信じて、体を預ける事をしましょう。出来れば裸足で歩き回ると尚よいでしょう。少なくとも自宅の内に!

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足の事再認識する --- 裸足 (2)

先日足と文明社会の話題を挙げた。今回は普段余り聞かない足に関する解剖、神経学などの難しい話題にしておく。

まず、人気テレビ番組の好きな表現:「更に驚く事実を発見!」

「足」 - 余り深く考えない人が多いでしょうが、この傍役は実に複雑で高感度の「器官」だ:

足は26個の骨、33個の関節、107本の腱および19本の筋肉を含んでいる。

体の25%の骨は足に含まれている。そのバランスは全身に影響を与える。

足に125000個の汗腺ある、大半は足底にあり、毎日足から0.25lの汗がでている。

更に、脳の中で体の各場所は均等的に支配されていない。視用頻度の高いや、常用度の高い場所のため脳の神経を大量つかう。脳は体のどの部分でどれぐらいの割合で「力を入れて」いるのは次の図が示す。手足は体全体より多くの神経を使ってしまう。

しかし、文明人は自分の足はいつ何をしているかが全くと言って言いぐらいしらないようだ。

宿題:日曜生活の中で体重を踵より**少し**前のほうに移動して活動してみてください。体重の「重心」は足背の一番高い所に来るべき:土踏まず。カメラの三脚と同様:重心は脚の上ではなく、三脚の間に出来る空間に置かれると安定性が最もいい。

少し考えてみてください。

日本医師会へ

先日「医療問題」に関して駄文をブログのせた。医師会、厚生省、新聞社などに同じ文章を送信した。
その中に問題のは日本医師会だと思います。先ほど再度医師会にメールをそうしんした。それに対して反応来るのだろうか:


日本医師会へ

拝啓
生意気な事を申し上げるのも大変失礼ですが、一言不満を表現させてください。

貴団体は自ら国民の意見を招いている:
貴団体HP: 「日本医師会は、みなさまの声を、国に訴えかけていきます。ぜひ、みなさまの声をお寄せください。」

それに答えて先日私の意見をそちらに送信しました。しかし、反応を一つもありません。(初めてではありません!)新聞社の場合こちらの意見を特に聞きたく ないのでそれが「普通」でしょうが、貴団体は「ぜひ、みなさまの声をお寄せください。」と意見を聞かせて欲しいと表現しているので、実際意見を寄せてしま われるならば、個別に答えなければ少なくとも厚生省のように「自動返信」で「はい、貴方の声を確かに聞こえました」と伝えるのは礼儀の最低線でしょう。技 術的(費用)にもどこにも問題ないはずです。

現状では「貴方の意見を聞かせてください」と言いながら「貴方の意見なんてどうでも良い」との体制を取っています。
それはこの国のエリート団体の一つとして相応しい態度でしょうか。

参考:厚生省から自動返信
ご意見・ご要望ありがとうございました。
www-admin@mhlw.go.jp から
厚生労働省です。この度は貴重なご意見・ご要望をいただきありがとうございました。
頂いたご意見は今後の厚生労働行政の参考にさせていただきます。
これからも厚生労働省をよろしくお願いいたします。

姿勢を正せ

あなたは治療者の失格だ」とよく言われる。

 その理由:

日本人の略全員が少なくとも一時的に肩凝り、頭痛や腰痛などを訴える。

これらの主訴は大部分不良な姿勢による事が一目瞭然。

私はそのことを指摘すると、患者に「責任を押し付ける」ため批判される:「疲れているから仕方ないでしょう。正しい姿勢保つ事出来たら苦労はしないよ。」

しかしそれは良くても錯覚だ。

人間を疲れさせるのは、宇宙の最強の力である「重力」だ。

地上に居る限り、絶えず(!)体を地球の中心に向かって「引力」を掛けて、立ったや座った姿勢を崩そうとしている。

そして重力は情けを知らない。

「疲れている人は可愛そうだから今日は半分の力で引っ張る。。。」なんて事はない。

意識的または無意識的でも宇宙の最も強い力に逆らおうと思ったら所詮無理だ。

「正しい姿勢」は疲れそうに見えるが、実際消耗するエネルギーは最低限となる。

疲れているこそ姿勢を良くすれば、引力による負担は最低限に抑えられる。

つまり「楽になる」。

正しい姿勢を取ると美しいー花篭を運んでいる女性の絵を見て下さい。

正しい姿勢は強い!アフリカの女性の映像を参照。重い物を楽々と運んでいるようです。多分そのまま家まで数キロメートルも歩くでしょう。日本(欧米も同様!)ではそれを出来る人は略居ないでしょうが、高齢で背骨が変形していない限り、その姿勢を絶対に取れない理由もない!

東洋に於いて仏像を見れば、正しい姿勢の見本ばかりだ。決して偶然ではないでしょう。

私は患者にその正しい姿勢と取るように指示すると結局2年前に週刊朝日の「増刊漢方2003」に掲載された記事「商売抜き、信念を貫く異色鍼灸師」のサブタイトル「患者を来させない事は私の仕事だ。」 の如くになる。

http://www.einklang.com/Kanpo2003.htm#page1 

http://www.einklang.com/Kanpo2003.htm#page2

姿勢を良くすれば多くの症状は自然と改善し、患者が来なくなる。

それで宜しい。

姿勢を良くするのは本人の努力しだい。

他人に「やってもらう」訳にはいけない。

姿勢をよくすればいい事はいっぱい: 

がんばりましょう

東洋文化の根源

もしかしたら私一人でこの事を思い込んでいるのか。丸きり見当違いかもしれない。

でも多くの人は「腹」が忘れかけてりると思う。

言うまでもないでしょうが、武術は全て「腹」で決まる。力の使い方、バランス、度胸。「腹を決めて」戦闘に挑む。

腹に頼るのは武術だけではない。お茶、書道、舞踊、太鼓、尺八等なども腹から行なわれてないと本物にはならない。当然東洋医学に於いても「腹診」によって病気を診断し、腹の健康は全身の健康の源という考えも太古から伝わって来た知恵だ。古くは松尾芭蕉の『奥の細道』に足三里にお灸を据えて長旅に備えたということが書かれています。その足三里はツボ(経穴)のスーパーマンのような存在であって、胃の経絡に属し、先ず腹を整える効き目がある。

日本語に「腹」に関する言葉は多数あるのは当然ご存知だと思うが、他の言語もどうようだ。例えば、「ガッツ(腸)ポーズ」は小腸や大腸の姿や位置を指しているではなく「力」を表現する。

日本では最高刑が昔如何にも切腹(海外ではこれを間違えて「ハラキリ」として知られている)でした。現代医学において中枢(抹消)神経系及び自律神経系の他に最近「消化管神経系」を別に認めるようになった。

「腹」は多分東洋全体の文化のあらゆる場面に於いて最終的の「決め手」となっているから、私は個人的に東洋文化の根源だと思っている。

先進ヶ国では人間が現代科学技術のお陰で随分と「頭でっかち」になる傾向あるから、精神的不安定になる人も少なくないでしょう。人間の中心(重心)部は頭にあるとその位置は高すぎる。自分の重心=中心は腹にあるべきだ。

今度悩んだり、怒ったり、怯えたりする事があれば、その問題を頭ではなく、腹で解決するような努力して見て下さい。そして、日常生活を通して精神的な安定性を図るため、赤ちゃんの時ちゃんと出来た腹式呼吸をもう一度思い出してください。

夏-電気不足-嘘

(この文章は東京新聞の投書欄に出ました。)

 最近毎日のように「電気不足」と言う表現を聞いたり、読んだりします。しかし・・・

昨日用事があって久振り東京に行ったらびっくりしました。渋谷、新宿などの商店街、デパート、個人の店やレストラン・・・見渡す限り軒並み表のドアや窓を全開しながら店内の冷房はフルパワーで稼動中です。ドアぐらいは自分の力開けたり閉じたりする事出来るでしょう。

 先進ヶ国の人口が全世界の人口の1/5程度でありながら、全世界のエネルギー消費の約80%を利用している事を考えるなら、商店街の店は人類に対すして限りなく無責任な行為を行いながら、自分たちはまだまだ足りないと騒いでいる姿見ていられません。まだ生まれてもいない孫に「どうして地球が破壊されたか」と聞かれたらなんと答えましょうか。

職人気質と医療費

(類似の文書は神奈川新聞に掲載された。)

    職人の技を生かして

 年々に高くなる医療費は読売新聞の少し前の記事により過去最高の29兆8000億円に達したそうです。多くの人は「仕方がないでしょう」と思っているらしいが、「医療消費者」として「買い求めるサービス」である、満足すべからず医療の品質と値段に関して個人的な意見を述べさせていただきたいと思います。

 上記の予算が膨大のものに膨れ上がっている事に関して医師、医療業者や保険会社などが余り興味ないかもしれませんが、その額を払わざるを得ない一般国民一人一人は上昇し続けている医療費が気になる筈です。私は、これは運命でもないし、不可逆の「時代の流れ」でもないと思います。この運命を変えられるのは「職人の技」だと信じています。

 大半の医療行為は「診察」と称されております。この中に含まれている「診」と言う文字は、「医者が、患者と話しをして、すみずみまで細かに病状を診る事である。」、又は「見立ての結果を教える」等の意味があります(漢和字典)。何かが詳しくを調べるためそれなりの時間と手間が必要です。しかし、現在医療現場で常識のように行われている「2分診察」果たして上記の意味で患者を診る事になるでしょう。これほど短時間で良質の診察を施す事がよく言えば大変難しいでしょう。従って、このような「2分診察」は必然的品質の悪い品/サービスです。

 例を上げましょう。以前往診の際患者が「腰痛や坐骨神経痛」を訴えました。しかし、診察で即に腹部にある最低拳大の腫瘍に気付きました。患者に現在の「神経痛」の原因は腰ではなく、腹部にあり、悪性の可能性もある腫瘍だと告げ、検査を薦めました。検査結果は後程思った通りの「癌」を判明しました。

 この患者は、私の往診の一ヶ月前に心臓発作(狭心症)で入院し、腰下肢痛で整形外科でも診てもらったそうです。ここは疑問です。少なくとも二人の医者に診て貰ったにも拘らず、素人が触っても分かる程大きい腹部腫瘍がどうして見落とす事が出来たでしょうか。答えは残念ながら簡単です。心臓発作は胸の病気と腰痛は腰の病気、いずれの場合西洋医学の職人がお腹を診る必要がないと思われたらしい。それでもこの患者の入院治療などに高額の医療費が請求されたはずです。

 類似の例は沢山あげられます。目で見れば、或いは触診や聴診すれば分かる病態に於いて、先ず高額の検査が注文されます。視診、触診、聴診などは(少なくとも私治療院)無料(又は極めて低い料金)で出来るのに検査を注文する行為は明らかに「金儲け作戦」に違いありません。現在の保健医療の大部分が検査に使われると考えると上記の行為/態度は膨大のお金の無駄遣いされることを意味します。年々に高くなり、新たのもの(例えば「介護保険」)が追加される高額の保険料を払わざるを得ない国民にとって決して納得すべき事情ではと私は信じています。その費用が患者を真面目に(職人らしく時間を掛けて)診察する事だけで大幅に削減できる事が一目瞭然となるような気がします。患者の話に耳を傾き、旧式の「診察」を行われていれば、現在検査に使われる金額の無視できないほどの部分が不要になるはずです。

 外国の諸調査によって通常の治療に例えば鍼治療を加える事によって、病態が改善するまでの時間が大幅に短縮され、同時に治療費も節約される事が判明しました。保険会社が一人の患者当たりに支払われる保険金が大幅に減りますので、現在問題とされる「財政不足」が改善される可能性が高い事が小学生でも検討できそうです。

 私も現在既に高い健康保険料を払っているのに、最近更に介護保険料が加算された事が気に入りません。そして現状を改革しなければ、数年後恐らく雪崩のように大きくなる医療費をカバーするため次の「特殊保険料」が考案されるに違いありませんので、一般庶民の負担を更に増すでしょう。  よって、私は鍼灸などの代替医学的、伝統医学的な(医療職人的)アップローチが現代医学の変わりとしてではなく、効率のよいとコストが比較的掛からない国を救う鍵の一つを握っている事を確信しています。

鍼灸 - 美容

ご存じでしたか…
美容も鍼灸治療の一つの応用です。
当然のことですが、体が健康でなければ美しくにもなれません。
そこで最近良く耳にする「半健康状態」のこと少々触れたいと思います。


 先ず、頭に浮かんでくることは肌のことでしょう。肌は特に女性にとって綺麗であった方がよろしい。しかし、肌は体のただの皮ではありません。漢方医学においてこの肌は二つのもので出来ている:一つは皮膚です。皮膚は目で見える、最も外側にある部分で肺と大腸の働きを反映します。もう一つはいわゆる「肌」です。この部分は目に見えない、皮膚の表面の下にある、胃と脾臓の働きを反映します。
 もし、肌に問題があれば、ただ外側から何かを塗り付けるだけでは多分十分の効果は期待が出来ません。やはり中から調子を整えて、改善しないといけません。
 類似の問題は例えば乳房の形状です。調節に大金を使っている方もいらっしゃるでしょうが、これもやはり内部から改善しないと長期に満足すべき効果が見られませんでしょう。乳房は東洋医学において上記の肌と同じ胃と脾臓の働きを反映します。その他に、姿勢は大きな影響があります。
上記のいずれの臓器の働きは幾分自分で指圧等の方法によって(可能であればお灸で)調節することが出来きます。勿論、このような調節は本格的な鍼灸治療で尚良いでしょう。
ご相談は無料で承ります。

不治の病

近代、鍼灸が肩こりや腰痛をやわらげるための治療法として認識されているようですが、鍼灸および漢方と言う民間療法は「蘭方医学」が導入される前に唯一の治療法でした。従って、鍼灸治療もほぼ全ての病気に使われました。優れている内科や外科治療、あるいは抗生物質や他の薬がある現在に鍼灸治療に潜在する力が忘れてしまいました。
しかし、残念ながら今も現代医学(西洋医学)は全ての問題を解決することが出来ない。輝かしい科学の進歩にもかかわらずいわゆる「難病」と「不治の病」が以前と同様に存続する。
 これらの病気のためもう既にあらゆる治療法を試されたが、未だ希望を持たせるものは乏しい。この時最後の助けを求めながら鍼灸治療を試してみたい方がときどき居ます。

 果たして、鍼灸治療がこれらの「難病」と「不治の病」を治せることは疑問ですが、試して見る価値は十分ある。
 研究というものは小さな治療院では普通不可能と考えて間違ない。しかし、私個人的に鍼の力はどこまで伸ばせることをどうしても知りたいし、同時に世間にも見せたいです。私の考えでは不治の病を治せることが出来なくても、患者の苦痛を和らげ、症状を改善させることが十分可能でしょう。