院長の部屋

(ここの「リビング」以外にも幾つか小さな部屋もある)

このページに取り敢えず以下の話題がある

身の上話
先生って・・・
責任
身をもって
身分・・・
Hayama Life – 異国人の異見 (別のページに) 是非とも一度見て下さい。


身の上話

本来「ただ」の世界一周の旅になるはずだった・・・

日本への道

 海の近く、軍港キールで生まれ育った。それ故に現在まで海の近くに住んでいるでしょう。但し、今は生まれ故郷のドイツではなく、神奈川県の葉山町に。葉山町は本来無名な小さな漁村だったが、御用邸が出来てから段々と私は余り賛同出来ない「高級リソート地」になってきた。葉山町に生まれ育ったお年よりの方からお話を聞くと、私の印象が裏付けられてとても最近の「発展」残念な結果を招いてしまった。ではなぜ私はここに来たのでしょうか?それはとても長い話と同時に簡単な話でもある。
ドイツで合気道の初段の試験。(向こうでは「黒帯」が「先生」になる)

 子供の頃当然弟(私)がお兄さんの真似をする事が多いでしょう。そういう訳でお兄さんが柔道をやり始めたとき私もどうしてもこのスポーツやりたくなった。二年後同様のパターンでお兄さんが合気道を始めて、まもなく私もそちらに走ってしまった。しかし、私に取って合気道は柔道より性に合った事が直ぐに判明した。従って、暫くしてから柔道を止めて、合気道の稽古に専念し、自分で言うと恥ずかしいですが、それなり目覚しい上達した。途中では一旦剣道にも遭遇したが、ここもまた私の性に合わなかった。空手の場合見学するだけでその適合性が明らかであった。
更に数年後、当時合気道の「先生=トレイナー」まで昇進した私は合気道の「生徒」を通して太極拳と出会った。最初は見せて貰っただけだったが、時期にその型を教えてもらった。太極拳に関して即座私にあっているスポーツだと確信した。 幾つかの出来事、特にスポーツ、は自分の性に合うが、他のものは自分の性に合わない「勘」は最終的運命的な出来事と繋がり、そしてその出来事は私を日本へ導いていた。

私の弓の先生:谷川先生

 17歳の時テレビで武術に関するドキュメンタリーを見た。その番組に知られていた武道のほぼ何でも取り上げられた:柔道、空手、合気道、剣道、Tae Kwon Do, Kung Fu etc… そして日本の弓:弓道。この武術ではとても長い竹製の弓で凡そ30mほど離れている的を狙う。ヨーロッパの弓は日本の物より短かいが、大変強力。その為弓を引く姿勢も違う。弓道の場合弓を引く人は道場の床に立ち、芝生を乗り越え、離れたところに設置した的を狙う。
しかし、例のテレビ番組ではある弓道の師範が芝生に立ち、弓を持ち上げ、引き、そして矢を放った。その矢は的に当たったかどうかはテレビに出なかった。シーン全体は多分2分未満だった。

しかしそれは十分だった!

 この2分のテレビは自分の頭の中に火花のようなものを発生させた。翻然として「これだ」との印象で自分は弓道をやりたい!/やらなければならない確信を持たれた。
 その後近くに弓道が習える道場あるかどうかを探した。当時2件を見つけた。その一つはハンブルグにあった、もう一つはパリーだった。しかし、(当然でしょうが)両方ともヨーロッパの先生が指導に当たった。理想高き青年の私として無論欧の弟子ではなく、「本当」の先生に習いたかった。結論は疑いもなく明白だった:

日本に行くしかない!

  五年間後、高校卒業や徴兵忌避者として社会福祉の仕事を終え、そして暫くお金を稼ぐ為に建材屋で働いてから当時大体の持ち物を売ったり/人に上げたりし、旅に持っていく物をリュックサック一つに纏め、5年間の貯金、持ち物の売りさばく事や上記のアルバイトによって集めたお金凡そ1万マルクをトラベラーすチェックに交換してから - 当然親の反対を無視して - シベリア鉄道の片道切符で旅に出た。旅はベルリンまでのヒッチハイクで始まり、ポーランド経由モスクワまでの汽車に続き、モスクワから例のシベリア鉄道でウラジオストクまで続いた。そこから船に乗り換えて二日半ほどの船旅で横浜まできた。全体凡そ2週間掛かった旅だった。日本に行くと言う決心、或いは計画の実現性に関する疑問は17歳であのテレビ番組を見てから実際22歳で出発するまでの5年間に一度もなかった!
 本来私の計画では先ず日本まで旅し、そこで半年ほど弓道をする事だけはっきりしていた。その後暫く東南アジアを放浪し、帆船を買ってオーストラリア経由でサンフランシスコまで航海し、そこでドイツから出発して1年後ドイツの知り合いと待ち合わせてからドイツに帰る予定だった。理論的に。

 日本に到着してから適切な道場を見つけるのは思った以上難しい事に悟った。殊にドイツで読んだ本で培われた私の理想的なイメージに合うものを中々遭遇しなかった。ある方の紹介で当時鎌倉に住んでいたドイツ人に出会えて、北鎌倉の円覚寺で住職であった須原耕雲先生をこの件に関する相談のために訪れたとき通訳してくれた。全のお坊さんの住居に招かれ、お寺においてそのような相談が出来ただけで当時感動した。
須原先生が書いた本の表紙:出直せ - 見直せ
  須原先生の息子から許可を頂いてこの本は英訳し始めた。なかなか進まない事は大変申し訳ないが、比較的近日中に世の中に出したい意欲ある。

 当然明答を頂いた:「日本語が出来ないならどの先生もあなたを教えられない/教えたくないだろう。白頭の師範が貴方のために態々英語やドイツ語を覚える事も無論期待できない。よって、先ず1-2年間日本語を勉強してから出直せ。」
 須原耕雲先生に魅了と刺激され、当時を持っていた観光ビザを学生ビザに替えて、もっと長く居ることを決心した - 期間不明。
 当時ビザの種類を変えるため一度国を出る必要があった。私は Hongkong に知り合いがいたから、そちらへ行き、ビザを申請し、待っている間知り合いに紹介された中国の先生の指導を受けた。ビザの申請に関して何かの書類不足で難航したため、元々の予定していた3週間は3ヶ月になってしまった。その間不足していた書類を取るため一度日本に変える必要があった。書類が全部揃ったら、パスポートに判子を押してもらうため再び Hongkong に行かなくてはならなかった。


 お茶の稽古中

しかし、その後の2年間は大いに楽しんだ。週数回の弓道稽古(残念ながら上記のお寺ではなかった)、お茶の稽古、毎日相模湾を一望する山の頂上で太極拳の練習などは私にとって快感だった・・・
 その間当然何人の日本人にも出会った。その内現在まで付き合っている友達 - そして勿論妻も。日本人との人間関係は日本語の勉強に(難あり!)に貢献した。日本人が正しい「標準語」を使っている事を想定していたのは私の間違いだった。男性の知り合いから自分が知らぬ間に決して宜しくない、日本語をしっかりとマスターするまで使うべからず口語の語彙を習得した。そして妻や当時英語やドイツ語会話の女性生徒にも沢山ならった。こちらの問題は、当時男性用語と女性用語の区別知らなかったため、上品の女性を使っている言葉はいかにもいい言葉ばかりだと信じていた。若かくて熱心の私はそれをそのまま真似てしまったため、男性として女性用の言葉を使ってしまったから、何度もとても恥ずかしい形で目立ってしまった。

 ドイツで高校卒業、兵役代替社会奉仕勤務を終えた段階でちょうど良い区切りと思い、大学にも行かず或いは職業を身につかず国を後したため、何時か将来どのように生活費と確保する事を考える必要も出てきた。この関係で東洋の哲学等に関する興味を表面化した。つまり、指圧の職業訓練を受けてしまえば個人の興味と仕事の必要性を結び付けられるのではないかと思った。全世界常にどこでも病人がいるから将来安定した生活基盤が出来るではないか - と思い込んだ。
 若くて経験のない青年頃のお話だ。今頃物事はそう簡単に捗らないことを悟った。それを別にして、視野を広げるため最初に計画した指圧の勉強を鍼灸まで拡大した。最終的鍼灸の専門学校に入学して、鍼、灸、指圧、あんま、マッサージを3年間の教育課程は国家試験で終える。合格した場合自分の治療院を開業する資格を得る。

 しかし、私はとりあえず暫く(正確に4年間)当時東京の総合病院である日産玉川病院にあった「東洋医学研究所」 に於いて臨床経験(現場の実践)を積む事にした。よって、毎日朝早く電車で東京まで出かけ、夜9時、10時頃帰宅する生活になった。週六日間。弓道やお茶の稽古などの他の活躍は必然的休みになってしまった。その代わり病院で他の所玉川病院においてで恐らく勉強出来なかった事を沢山習得するチャンスに恵まれた。日本の病院で勤めるドイツ人鍼灸師として、単に一日見学するだけではなく、私はとてもエキソチックな存在だった。一方そのような取り扱いは余り嬉しくなかったが、一方「派閥問題」から外れてしまい、仲間より沢山勉強出来る(「敵の陣地」に属する先生方から教わる)利点があった。


 病院を止めた後暫く翻訳及び往診専門の治療を行い、1995年葉山町にとても小さい治療院を開業した。それは今日現在でもやっている:鍼灸。これが自分は勝手に「自分の天職」と呼んでいる。ドイツ語では「仕事=職業」は “Beruf” と呼びます。しかしこの単語は「”Berufung” = 召命」から由来するので、自分が満足する仕事は出来ればそのような天職であって欲しい。残念ながら天職では6人家族を養えないので、同時に翻訳業もする。鍼灸は自分の本職で、翻訳は本業意だ。
 鍼灸の世界で現在まで少々目立っている存在だ(なるべく目立たないようにするつもりで振舞っている):欧米人鍼灸師が日本で鍼灸院を経営しているのはやはり少し「変わっている」。同じ外国人である中国人が鍼灸院を経営しているならさほど目立たないでしょう。

このような形で本来1年かかる世界一周の旅は日本に永久滞在する事になった。今は既に銀婚式の日本人の妻そして大分大きくなった4人の子供がいる。特に鍼灸師としてこの仕事に関する外国から来る問い合わせに対応しようとする。自分の経験もあるから、外国人が日本で殊に「日本の鍼灸/東洋医学」を学びたい人がいれば何かの形でお手伝いが出来たら幸いだ。そのような構えは必ずしも同業者で歓迎されないが、何となくこれも私の「使命」であるのではないかと思う。

玉川病院で勉強させていただいた時にやらせて頂いた研究の一つは術後疼痛にかんするものである。事前当時に玉川病院にあった「東洋医学額研究所」の設立/責任者であった代田文彦先生、外科の部長や外科の看護婦長などの方々から承諾してもらってから、凡そ二年半を掛けた鍼治療で手術後の経過は変わるかどうかの「臨床試験」であった。結果をまとめた文章は医道の日本誌に発表された。(ドイツ語に書き直し、ドイツの専門雑誌に出版されたものもここでダウンロードできる)

代田先生に大いにお世話になって特に恨みはないが、この私の仕事を先生の名前で専門雑誌に出した。

専門雑誌に発表された文章の始めです。基本的私書いたものです。
お正月2016年

上記のお話は患者のリクエストに答えてもう少し詳しくまとめまして、電子書籍として出しました:

https://www.smashwords.com/books/view/434933

神奈川新聞が取材に来た時の写真

先生って・・・

私は三流の職人しかないのに鍼灸師としていつも「先生」と呼ばれる。
鍼灸師は地元の「先生」= 模範として = 1500年前からこの国で良き「指導者」→「先生」=「先に生きる者」の役割を果たし、住民の健康を守る事に貢献して来たし、これからも継続的それに勤めるすべきと考えている。
国民の知的財産である東洋医学の知恵(常識でもあります)に基づく「指導」すれば、個人の健康と医療費削減を通して社会の健全化に働きかけられると確信する。

先ほどの「先生」と同じ形で「指導」と言う言葉を考えてみれば、次のように捉えられる。「指導」 = 指+導く。赤ちゃんが親の「指」(手全体が大きすぎる)を捕まえて、親に導かれる。「導く」は「道+寸」で出来ている。導くことは相手の手をひいていくべき道を一寸程案内する。先生は今度ここにとどまり、生徒=患者が一人で示された道を進む・・・出来れば最終的もう先生の世話にならなくてよいように。

責任

基本概念の(3):「人間は自分(とその他の生物)の健康状態(命)に対して責任があります。」のような文章を書くと怒られるに違いありませんが、その真実を今もう一回認識する必要があると思います。怪我、感染症、先天性疾患などに関して患者本人が悪いといっていません。
しかし、仕事上で必要ないのに姿勢を悪くしてから例えば肩凝りになってしまうのは本人の責任範囲内にあり、病気の原因を取り除く努力意思が無ければ、鍼灸治療でも治せません。症状が一時的少々改善するのみです。
病気を根本的に治さない(出来るにも拘わらず)で患者を通わせるのは不徳義だと信じています。 

身をもって

真面目な鍼灸師は患者に施す治療を先ず身をもって体験します。鍼灸師は自分に鍼をしたり、お灸をしたりして、患者に「アドバイス」する運動など自分でもします。そうしてから前述の「先生」=「先に生きる者」役割を果たすようになります。
そして自分はされたくない治療を必要なければ患者にも施しません。
それ故に治療者の治療 - 大きく言えば存在 - は説得力あります。

私は個人的「響く鍼」が余り好きではないので、どうしても必要だと考えない限り患者にも響く鍼をしない方針です。

10年ほど前に自転車の事故で手術を受けることになりました。その体験で術後の状況を非常に良く分かるようになりました。この体験なしで昔病院で行った研究(鍼治療で術後疼痛管理)を行った最中で患者に大変未熟な発言し、姿を見せたのは反省しています。
また、2年前に別の事故でも「身を持って」何が大事かが良く分かりました。
自転車: 地球のため

同じ事は「運動」(→自転車を参照下さい)にも言える。常に患者に運動を進める私は何もしなければ可笑しい。

身分・・・

私の意見(異見)は決して普通ではないし、多くの場合常識から外れているので、反論や批判も多い。一つの相違点は服装。

良く「患者様」 - 私はその言葉が可笑しくて、単なる「患者」であるべきだと思う - に敬意を示すために背広、ネクタイ、その上白衣をきるべきと言われる。しかし、私は学者でもないし、上流階級のものでもない。私は肉体労働の職人 - 三流程度 - に過ぎない。よって、その身分にあった服装は極普通のものであって、決して高級ブランド品ではない事。自分の身分にあった服装を着ることは自分自身に対して正直で、患者に実際(実力)と異なる姿を装わない事だと信じている。ご了承頂けたら嬉しい。

私の普段許されざる異見や思い出は昔からブログに書いている → ドイツ人鍼灸師の意見=異見

患者の声 — 来院やこのサイトを訪問した方々に是非ともコメントや印象を書き込んでください。(そのようなページの作成方法はまだ勉強中ですが・・・)

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