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癌と鍼灸

癌と鍼灸

以前学会で発表した事をまとめている。

鍼灸師はどの程度癌の発見に貢献する可能性について学会で発表しました。

その内容の要約はここに記載、

当日使われたスライドはPowerPoint fileをこちら

(上記のリンクに右クリックすればダウンロード画面が表示され、保存先のフォールダーの指定によりこのPowerPoint fileがダウンロードできます。)

医療の後進国日本

(download: file)

  - リソースの使用がお粗末 –

多数の方々は上記の発言に対する反応は「まさか」と驚く事に違いない。しかし最先端で極めて高価の技術を利用するだけは「発達」の兆候ではない。こうした技術や科学の進歩はあまりにも輝かしいから、もう少し自然に密着している人間らしい立場を見失う事も不思議ではないが、今こそまで築き上げた文明の力を発揮する所だ。

健康と統合医療
 先ず、健康に関してWHO(世界保健機関)の憲章前文では「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」(“Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.”)と定義されている。つまり、バランスが取れたら状態を言い、そのバランスが失われた時、全ての側面から取り戻す努力が必要だ。
 このような「包括的」な観点をもつ医療は昔から医療の原点でもある。最近これが「統合医学」又は「統合医療」(integrative medicine)と呼ばれ、世界中の注目を浴びている。しかし日本に於いて相変わらず西洋医学(保健医療)と他の医療体系(例えば東洋医学)の「混合医療」は禁止されている。西洋医学に完全頼り切っている。但し、その体系は論議の余地のないほど極めて高価で高度の技術をようする。その目標を実現に当たって要求されるリソースを考えれば国民のためになるとは思えない。WHOはこの問題を既に1983に出版された ”Traditional Medicine and Health Care Coverage” (日本語版:1995「世界伝統医学大全」) 取り上げた。世界各地の人々の保健を充実したいならば、その地域や文化に従来から利用されている手段を検証し、十分の利用価値を裏付けるものなら最先端の技術と統合しなければならない。後にこう言った概念を踏まえて”HFA2000” (Health For All by the year 2000、全世界に於いて)計画が発表された。2004年現在でも実現まで至っていないし、高価の西洋医学のみでは不可能だと判断せざるを得ない。

リソース ― 人材、予算、知的財産


 数多くの大病院にそれこそ多数の医師が勤めている。予約があるのに長時間に待たされた挙句の果てに実際の診察/治療の時間は僅かである事実は医師の数が足りない発展途上国と大差がないように見受ける。
 ある程度(かなり)裕福の家庭出身でないと現時点日本に医学を勉強する事が難しいのは、最適の人材を育成するも困難である事を別問題にしても、次のヘッドライン(その横に「ある小児科医師の死」もあった)は貴重な人材を粗末する事示唆する。(その事は無論他の人材に関しても適応する。)過労死になるまで働かせるほど医師の数が足りないはずはないでしょう。無論「医者の不養生」と言う言葉を知らない人はいないでしょう。自分、又は自分の部下、の健康管理がそれほど出来ないものは説得力のある健康指導に務められない。

 「診察」の概念も流れ作業と勘違いされているかもしれない。辞書によれば「【診】: {動}みる。みおとしのないようにすみずみまでみて、その事がらについて判断を下す。よくみる。」がある。だが何かを「よく」みたいならば、それなりの時間をかけることが必要です。現在実際の状況は異なっても、且つで日本の医療に強い影響を及ぼしたドイツでは「外来診療」を “Sprechstunde” と言う。直訳では「話す時間」です。「財源不足」に悩まされている日本に於いても即検査やハイテックの駆使に走る事を一旦後回しにして、再びこの「良く診る、ゆっくり話す時間」の原点に戻るとよい。時間を掛けて良く診る事は殆どの伝統医療の一つの特徴でもある。

 又、上記に「小児科」と言う例を上げた西洋医学領域は多数の「専門分野」に分けられ、そして更に細分化する傾向がまだまだ続く。「専門家」がいることは当然に頼もしいと必要ですが、専門の事しかしないなら視野が大変狭くなり、冒頭に記載したWHOによる健康の定義に基づく保健診療は難しくなる。ある患者の実話によると「新生児の孫が風邪ひいたらしいから開業小児科に連れたが、そこで新生児を診察できないから、大病院に行くように言われた。」

経験と「勘」対EBM、技術的なリソース


人材の他に技術的や知能的なリソースにも無駄の部分が多い。左記のヘッドラインにはそれなりの根拠があるけれども、「進歩」と言う概念(信念?)に視野が塞がられ、医療の原点である触診などが軽視あるいは廃止されると、診察の際即に高価の技術を利用する事になる。矢張り患者の実話ですが、肩の痛みを訴えて病院で診察を受けたら、医師が触診もせず、MRI検査を注文した。触診でその病態が凡そ分かってしまうが、点数が全くあるいは僅かにしか請求できないので、患者の自己負担でさえ2-3万円掛かる検査は日常の臨床の基本になると、保険制度の崩壊は目に見える。ハイテックの画像診断機器や高度の技術を要する検査方法を利用することだけでは、その医療体制が本当にに「発達した」とは言えるでしょうか。

情報及びコミュニケーション

歴史的の背景によって日本に於いて医者-患者の独特の関係を築いたが、その時代の終止に向かっている気配はある。

医者は基本的「職人」であるにも拘わらず、「医者様」と呼ばれる事決して珍しくない。そうすると医者が患者より「偉い」と言う感覚で診察が行われる。つまり、患者と医者は同レベルの人間ではなく、医者の地位は患者より上から上下関係になる。だがどの上下関係においても「下」の者は「上」の者に対してある程度遠慮する。つまり、外来における医者の質問「如何ですか」に対して患者が「おかげさま」と答えるシナリオは誰でも知っている。だがそれで医者に診察に必要な情報が十分提供されない。

 医者は患者が診察の際同時に他の治療も受けているかどうかと聞かれる患者は多分全国的にも少ない。例え「はい」と答えたら、どんな先生はどう言う治療を施しているかを尋ねることは滅多にないに違いない。左記のヘッドラインにも拘わらず医者同士のコミュニケーションは本当に乏しい。これは先進カ国の高度発達した医療制度の本当の姿なのか。そして治療効果の判定は当然「自分」が施している治療のみによるものだと思われ危険が高い。

 一人の患者に多数種の薬を処方されるのも一般的ですが、それぞれの薬品が認可されるために行われる臨床試験において大体一種の薬しか検討されない。薬物相互作用に関して2種、多くて3種までが調べられる。同時に8種や10種、場合によって異なる医療機関に重なるような薬を処方される方においてこの組み合わせはこの患者に於いて本当に安全かどうか誰も知らない!これこそ先進国が目指しているEBM (evidence based medicine) で示されている目標より遅れているかを証明している。

 また、最近「自然」或いは「漢方」もブームとなっているように見受ける。当然、医療体制はこれを商売のチャンスとして見逃すことは出来ないので、多数の医療施設に「漢方処方」を宣伝し、厚生省はおよそ120種の漢方薬を保険診療のために認可した。製薬会社はそれらの薬の使用目標を手帳にまとめ、病名別や症状別に漢方薬を選択、使用できるようになった。だが漢方薬の使用にあたって漢方医 学独自の概念があって、それを無視すれば本来の漢方薬の良さは発揮できなくなる。6-7年程前に「少柴胡湯」と言う漢方薬が慢性肝炎を目標として使われた際、数人の患者が死亡した事件もあった。それ以来厚生省は漢方薬は危ないと危機を感じ、例の漢方処方の説明書にその危険を赤文字で示されるようになった。しかし、それは漢方薬が危ないではなくて、その使い方を完全に無視している医者が悪い。そこで又上記のヘッドライン(広告)はこの国がいかにも遅れていることを物語っている。東洋医学の1300年の伝統を無視してたった150年で医療現場を制覇し、オールマイティだの現代医学として「日本初」は随分お粗末の気がする。
 

 

この写真はある施設についての記事にあった。この施設は特に裕福ではない方の世話をしていたそうです。施設の職員も頑張っているに違いないが、私は外国人としてどうしてもその「安らかに」とお骨の上に置いてある娯楽ビデオと横にあるビジネス電話帳のコントラストに驚愕した。スペースはいくら限られているにしても、これが余りにも情けないです。多分第三世界では死者に対してもう少し品のある態度を取るではないでしょうか。

  • お骨の上に娯楽ビデオ、その横にビジネス電話帳

この写真はある施設についての記事にあった。この施設は特に裕福ではない方の世話をしていたそうです。施設の職員も頑張っているに違いないが、私は外国人としてどうしてもその「安らかに」とお骨の上に置いてある娯楽ビデオと横にあるビジネス電話帳のコントラストに驚愕した。スペースはいくら限られているにしても、これが余りにも情けないです。多分第三世界では死者に対してもう少し品のある態度を取るではないでしょうか。
お骨の上に娯楽ビデオ、その横にビジネス電話帳  

結語


 現代医学という表現は略イコール「西洋医学」と使われ,この領域に於いて目覚しい進歩が続き、20年前に夢にも想像できなかった技術で今まで不可能と思われたものを可能にするつつある。しかし、同時に進む「専門化」によって視野が極めて狭い「専門馬鹿」も増えている。受診すると臓器や病症ごとに取り扱われ、その医療体制は機械化して来た。「部品交換」や「修理」される患者には骨の髄まで凍りそうな冷たいものだ。

 一方、世界中のどの文明で、どの時代にもあった包括的な医療体制は局所のみではなくて、人間を見る温かいものだ。緊急事態や診断技術などの分野には現代医学の代わりにはなれないが、これらの伝統的な手段は国の財源不足の解消に貢献できる上に国民の知的財産でもある。健康管理は完全に専門家に任せるべきではない。医療従事者の第一の使命は患者を病気から守って、そして病気に掛かった場合出来る限り早くまた自立させることだ。残念ながらこの「理想」は今の時代に「利益」の信念に負けているようです。

 日本において東洋医学1300年の歴史あるので、本来この分野で世界のリーダーでもあるべきだが、情報発信地として全くと言えるほど機能していない。上記のWHOが発行の本は日本語に翻訳されているが、WHOの正式のホームページに日本語翻が記載されていない。他の言語はある。中国は世界的レベルで東洋医学思想を支配されているようだ。日本独自の業績でさえ海外では当然のように中国の発想だと思われることが多い。そして、伝統医学と保険の問題や科学的な研究等などに関しても日本はアメリカを見て、真似てしまうことが目立っている。
それでも日本は先進国といえるでしょうか。

職人気質と医療費

(類似の文書は神奈川新聞に掲載された。)

    職人の技を生かして

 年々に高くなる医療費は読売新聞の少し前の記事により過去最高の29兆8000億円に達したそうです。多くの人は「仕方がないでしょう」と思っているらしいが、「医療消費者」として「買い求めるサービス」である、満足すべからず医療の品質と値段に関して個人的な意見を述べさせていただきたいと思います。

 上記の予算が膨大のものに膨れ上がっている事に関して医師、医療業者や保険会社などが余り興味ないかもしれませんが、その額を払わざるを得ない一般国民一人一人は上昇し続けている医療費が気になる筈です。私は、これは運命でもないし、不可逆の「時代の流れ」でもないと思います。この運命を変えられるのは「職人の技」だと信じています。

 大半の医療行為は「診察」と称されております。この中に含まれている「診」と言う文字は、「医者が、患者と話しをして、すみずみまで細かに病状を診る事である。」、又は「見立ての結果を教える」等の意味があります(漢和字典)。何かが詳しくを調べるためそれなりの時間と手間が必要です。しかし、現在医療現場で常識のように行われている「2分診察」果たして上記の意味で患者を診る事になるでしょう。これほど短時間で良質の診察を施す事がよく言えば大変難しいでしょう。従って、このような「2分診察」は必然的品質の悪い品/サービスです。

 例を上げましょう。以前往診の際患者が「腰痛や坐骨神経痛」を訴えました。しかし、診察で即に腹部にある最低拳大の腫瘍に気付きました。患者に現在の「神経痛」の原因は腰ではなく、腹部にあり、悪性の可能性もある腫瘍だと告げ、検査を薦めました。検査結果は後程思った通りの「癌」を判明しました。

 この患者は、私の往診の一ヶ月前に心臓発作(狭心症)で入院し、腰下肢痛で整形外科でも診てもらったそうです。ここは疑問です。少なくとも二人の医者に診て貰ったにも拘らず、素人が触っても分かる程大きい腹部腫瘍がどうして見落とす事が出来たでしょうか。答えは残念ながら簡単です。心臓発作は胸の病気と腰痛は腰の病気、いずれの場合西洋医学の職人がお腹を診る必要がないと思われたらしい。それでもこの患者の入院治療などに高額の医療費が請求されたはずです。

 類似の例は沢山あげられます。目で見れば、或いは触診や聴診すれば分かる病態に於いて、先ず高額の検査が注文されます。視診、触診、聴診などは(少なくとも私治療院)無料(又は極めて低い料金)で出来るのに検査を注文する行為は明らかに「金儲け作戦」に違いありません。現在の保健医療の大部分が検査に使われると考えると上記の行為/態度は膨大のお金の無駄遣いされることを意味します。年々に高くなり、新たのもの(例えば「介護保険」)が追加される高額の保険料を払わざるを得ない国民にとって決して納得すべき事情ではと私は信じています。その費用が患者を真面目に(職人らしく時間を掛けて)診察する事だけで大幅に削減できる事が一目瞭然となるような気がします。患者の話に耳を傾き、旧式の「診察」を行われていれば、現在検査に使われる金額の無視できないほどの部分が不要になるはずです。

 外国の諸調査によって通常の治療に例えば鍼治療を加える事によって、病態が改善するまでの時間が大幅に短縮され、同時に治療費も節約される事が判明しました。保険会社が一人の患者当たりに支払われる保険金が大幅に減りますので、現在問題とされる「財政不足」が改善される可能性が高い事が小学生でも検討できそうです。

 私も現在既に高い健康保険料を払っているのに、最近更に介護保険料が加算された事が気に入りません。そして現状を改革しなければ、数年後恐らく雪崩のように大きくなる医療費をカバーするため次の「特殊保険料」が考案されるに違いありませんので、一般庶民の負担を更に増すでしょう。  よって、私は鍼灸などの代替医学的、伝統医学的な(医療職人的)アップローチが現代医学の変わりとしてではなく、効率のよいとコストが比較的掛からない国を救う鍵の一つを握っている事を確信しています。

鍼灸 - 美容

ご存じでしたか…
美容も鍼灸治療の一つの応用です。
当然のことですが、体が健康でなければ美しくにもなれません。
そこで最近良く耳にする「半健康状態」のこと少々触れたいと思います。


 先ず、頭に浮かんでくることは肌のことでしょう。肌は特に女性にとって綺麗であった方がよろしい。しかし、肌は体のただの皮ではありません。漢方医学においてこの肌は二つのもので出来ている:一つは皮膚です。皮膚は目で見える、最も外側にある部分で肺と大腸の働きを反映します。もう一つはいわゆる「肌」です。この部分は目に見えない、皮膚の表面の下にある、胃と脾臓の働きを反映します。
 もし、肌に問題があれば、ただ外側から何かを塗り付けるだけでは多分十分の効果は期待が出来ません。やはり中から調子を整えて、改善しないといけません。
 類似の問題は例えば乳房の形状です。調節に大金を使っている方もいらっしゃるでしょうが、これもやはり内部から改善しないと長期に満足すべき効果が見られませんでしょう。乳房は東洋医学において上記の肌と同じ胃と脾臓の働きを反映します。その他に、姿勢は大きな影響があります。
上記のいずれの臓器の働きは幾分自分で指圧等の方法によって(可能であればお灸で)調節することが出来きます。勿論、このような調節は本格的な鍼灸治療で尚良いでしょう。
ご相談は無料で承ります。

不治の病

近代、鍼灸が肩こりや腰痛をやわらげるための治療法として認識されているようですが、鍼灸および漢方と言う民間療法は「蘭方医学」が導入される前に唯一の治療法でした。従って、鍼灸治療もほぼ全ての病気に使われました。優れている内科や外科治療、あるいは抗生物質や他の薬がある現在に鍼灸治療に潜在する力が忘れてしまいました。
しかし、残念ながら今も現代医学(西洋医学)は全ての問題を解決することが出来ない。輝かしい科学の進歩にもかかわらずいわゆる「難病」と「不治の病」が以前と同様に存続する。
 これらの病気のためもう既にあらゆる治療法を試されたが、未だ希望を持たせるものは乏しい。この時最後の助けを求めながら鍼灸治療を試してみたい方がときどき居ます。

 果たして、鍼灸治療がこれらの「難病」と「不治の病」を治せることは疑問ですが、試して見る価値は十分ある。
 研究というものは小さな治療院では普通不可能と考えて間違ない。しかし、私個人的に鍼の力はどこまで伸ばせることをどうしても知りたいし、同時に世間にも見せたいです。私の考えでは不治の病を治せることが出来なくても、患者の苦痛を和らげ、症状を改善させることが十分可能でしょう。

Die deutsche Botschaft und ihre Ärzteliste

So weit ich weiss, leben ca. 5000 Deutsche in Japan. Ein mir unbekannter Teil davon in und um Tokio. Angesichts der Tatsache, dass orientalische (“alternative”) Medizin weltweit eben als Alternative zur westlichen Medizin ständig mehr gefragt ist, habe ich vor etwa 5 Jahren einmal bei der deutschen Botschaft in Tokio nachgefragt, ob es möglich wäre, mich – sicher der einzige **deutsche** Akupunkteur in diesem Lande – in die dort geführte Ärzteliste aufzunehmen, da es doch sicher hin und wieder gibt, die gerade diese spezielle Information suchen. 

Wie erwartet, habe ich eine ablehnende Antwort erhalten. Nicht, dass ich jetzt einen heiligen Krieg mit der Botschaft anfangen möchte, aber ich dachte mir, dass die entsprechende Korrespondenz doch icht ganz uninteressant ist …

“Qualifikation” als Handwerker reicht offenbar nicht. Vielleicht stellt ein Handwerker auch eine Gefahr für die “Reinrassigkeit” der akademischen Gesellschaft dar?? 

Als Referenz: hier in der Nähe gibt es die Yokosuka American Navy Base. Die Leute haben eine Beratungsstelle für Neuankömmlinge in Japan, Familienmitglieder etc. Ein einziges Mal hatte ich eine Anzeige in der Zeitung auf der Base und diverse Leute sind bei mir in Behandlung gewesen. Seitdem hat die besagte Beratungsstelle meine Adresse “auf Lager”, auch wenn die mich nicht direkt kennen, und geben sie an alle eventuell interessierten Personen weiter.

Krebs und Akupunktur

(Inzwischen nicht mehr so ganz neu. Die Folgevorlesung habe ich neulich auch schon gehalten, nur gibt es darüber kein Material. (Auch) Dort habe ich wieder einmal zum Ausdruck gebracht, dass Akupunteure im wesentlichen HANDWERKER sind und als solche über Fähigkeiten verfügen (in langen Jahren klinischer Praxis erworben), die Ärzten meist nicht zur Verfügung stehen. Und mit Hilfe dieser Fähigkeiten können Akupunkteure und ähnliche Berufsgruppen sicher einen Beitrag zur medizinischen Versorgung liefern, der von Seiten der sich oft auf höchst komplexe Technologien stützenden Ärzte nicht angeboten werden kann.)

(Auf den folgenden Link rechtsklicken und dann “Speichern als” wählen, um die Power Point Datei herunterzuladen.)

(Dazu hier die auf Englisch übersetzten Dias)  

    Heute (am 25. November 2001) habe ich auf einer Konferenz zum Thema “Krebs und Akupunktur” in Tokyo einen kleinen Vortrag gehalten. Im Rahmen dieses Vortrages habe ich die derzeit (nicht gesicherte) Wahrscheinlichkeit, dass Akupunkteure bei ihren Patienten Krebs entdecken, lange bevor Ärzte darauf aufmerksam werden. 

    Bei einer jährlichen Inzidenz von 440000 Patienten in Japan und einem Anteil von 6,9% Akupunkturbehandlungen an allen jährlich landesweit durchgeführten Behandlungen ergibt sich die Wahrscheinlichkeit, dass jährlich bei etwa 30000 Patienten ein Krebs nicht von einem Arzt, sondern einem Akupunkteur entdeckt wird.

    Mich würde interessieren, wie diese Situation in Deutschland (oder anderswo) aussieht. Wenn jemand dazu Informationen hat, wäre ich über jeden Hinweis dankbar.

Diät – oder eher Gewichtsreduktion

Außer meiner beruflichen (wobei ich dies unverschämterweise ganz persönlich als von “Berufung” kommend betrachte) Tätigkeit als Akupunkteur auch Übersetzungen mache (dies ist die eigentliche finanzielle Grundlage für unser Leben), kommt es im Rahmen dieser Arbeit oft dazu, dass ich zwar nach dem Abendessen eine kleine Pause mache, aber im wesentlichen danach noch bis spät in die Nacht arbeite. Wenn ich dann den Tag beende(te), gönne ich mir vielleicht ein Bier oder japanischen Schnaps (Sake). Das allein wäre ja noch erträglich, aber über eine ganze Weile hinweg habe ich dabei auch immer den Kühlschrank nach schmackhaften Happen durchsucht, die zum Schnaps gepasst hätten.

Das hat dann dazu geführt, dass mein Körpergewicht im letzten Juli (2009) schließlich die dreistellige Grenze überschritt! 100 kg bei nur 169 cm Größe – das passt wirklich nicht mehr. Von meinem beruflichen Standpunkt als Akupunkteur her kommt es immer wieder vor, dass ich meinen Patienten “empfehle” ein wenig Sport zu betreiben und etwas abzunehmen. Aber wenn man selbst so aus dem Rahmen fällt, wirkt eine solche Aussage natürlich nicht sehr überzeugend.

Daher entschloss ich mich im vergangenen Jahr, die **Menge** meiner Nahrungsaufnahme und den Alkoholkonsum zu reduzieren. Jetzt esse ich wahrscheinlich etwa die Hälfte von dem was ich vorher gegessen habe, gönne mir dabei aber auch Schokolade, Donuts und fette Fleischgerichte, sowie hin- und wieder einen Wein oder dergleichen, aber eben nicht mehr täglich, wie das bis letzten Sommer üblich war. Darüber hinaus habe ich auch wieder angefangen Fahrrad zu fahren (was nach einem Unfall für einige Jahre im wesentlichen ausgeblieben war). Seither fahre ich meistens täglich etwa 1 Stunde Fahrrad. 

Dies hat dazu geführt, dass ich vom letzten Juli bis März dieses Jahres ca. 21 kg abgenommen habe. Wobei das Fahrrad fahren sicher dazu beigetragen hat, unnötige Kalorien abzufackeln. Daher ‘leide’ ich auch nicht an total faltiger Haut oder herabhängenden Restfettpolstern, sondern mache eher (sofern ich dass selbst überhaupt sagen darf) einen sportlichen, gefestigten Eindruck. 

Ich musste mir schon selber sagen: Wo ein Wille ist, da ist auch ein Weg.

Diese Veränderungen haben auch sowohl positive wie negative finanzielle Auswirkungen.

Negativ: Kleidung zum Ausgehen, die ich mir im letzten Jahr anlässlich einer Arbeit als Dolmetscher gekauft habe, ist jetzt so groß, dass ich darin wie ein Clown aussehe. Andererseits kann ich aber jetzt wieder Hosen tragen, die seit 15 Jahren im Schrank gelegen hatten, weil sie mir zu klein geworden waren.

Fahrrad fahren – eine Übungsform die ich daher nur empfehlen kann. Sie belastet die Knie weniger und erlaubt offenbar intensive aerobe Übungen über längere Zeit (Ausdauertraining) aufrecht zu erhalten. Und gerade langfristigen Beanspruchungen standzuhalten ist etwas, dass in der modernen Gesellschaft scheinbar systematisch abgebaut wird (eine Verschwörung die Menschheit in die Dekadenz zu treiben?).

Ich werde mich diesbezüglich noch wieder melden.

町並みは地域社会のアイデンティティ

(飽くまでも個人的な意見)

「 町並 み」と言う 言葉 はよく聞きます。 自分 の 伝統 を忘れつつある 現代 日本 社会 ではそれを „My town“ と呼ぶ人々も少なからず。旅に出かけて「あの町の 町並 みは綺麗ですね」とか「あの町の 町並 みを見るとほっとする」などの 表現 は 頻繁 に耳にするし、 自分 でも使います。 都会 の嫌いな私には 最近 葉山町におきる 変化 を見ると悲しくなります。ここで 読者 に 大変 申し訳ありませんが少々 愚痴 を溢したい。

 この「 町並 み」は 辞書で見ると「町の道筋に人家 が建ち並んでいる様子。また、そのところ。」と書いてあります。又は〔 動詞 「なむ(並)」の連用 形 から〕(1) 世間一般にごく普通であること。

  町並 みは、特に 本来平凡の漁村であった葉山町、ある 一定 のスタイル、雰囲気、そこに住む人々の「共同表現」として捉えたい。その思考に基づいて「地域社会」が成り立ってくるではないかと思う。日本に於いてその地域社会単位は他の国よりも 綿密に出来ている感じもするし、 日本文化の正体 =ルーツ=根でもある。「元町」= 地域 の「根本、中心 」であり、 住民の原点となる。英語ではこの地域社会は”community”と言い、”common” (共通の,共有の, 共同)と言う意味から由来 する。 同様な意味はcommon place,common sense、unite, unity等に見られる。

 しかし、 最近の町並みはそのような役割 を果たしていないような気がします。「並」は「個人主義」の「波」に飲み込まれ、立ち並んでいる家、特に最近出来ている物はどこの 時代やどこに由来が不明で、本来開放感や通気性を確保するための窓はどちらかと言うと要塞の???に似て来た。開け閉めは出来ないものも多いので、適切に「羽目殺し」となっている。窓が殺された。

日本の長い歴史を通じてこの国の 気候 1)に合う 建築 、そしてそれを支えてきた世界最高峰の技術を持っていた日本 の大工さんは何処風が分からない技術を要しないプラスチック素材 組み立て式の 犠牲 となってしまった。だが暴走はそこ止まらない。「開発」と名乗って町中それこそ「日本」と連想させないマンションが次々と建築される挙句の果てに葉山町らしく狭い道路は高速道路のように広げる計画が実行に移されてきた。

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右に写って新築の家の壁に幾つかの「穴」があいているが、それは私の感覚では「窓」とは言い得ない。大きく開けて、日本の気候にあった形で風通し良くする事もできないし、掃除するのも至難の業でしょう。そして人間を歓迎するような friendly な窓(右上)よりも「銃眼」のように見える。

日本の伝統的な家作り(左上)なら、この国の気候にあった、極めて機能的且つ美しい「和風スタイル」はあったのに!

  日本の文化や伝統を憧れる私にはこのような動きは残念でならない。元々日本人ではないので 本来 の 意味 でここは私の「故郷」ではないかもしれないが、所謂心の故郷であった:小さくて、謙遜な庶民的な町。この心の 拠点にあった自分 の「ルーツ=根」が失いつつある事を感じるのは私だけでしょうか。英語では自分の故郷を無くしたことはいかにも”uprooted”と言う。偶然 か。 

1)  日本 の 気候 と 文明 に関して 清水 馨八郎の「 日本 文明 の 真価 」は 参考 になる。

Scapes

森戸海岸に “Scapes” と言うホテルが建てられた後に、そのホテルに連絡した事ある。ホテルのHPから表現を借用する:「穏やかな海と深い森を湛える」のような場所が好き。本来漁村のままであればなおさらに良いでしょう。鍼灸師として私は特に「自然」や「生態」等の概念に関して頻繁に考えるのは仕事柄でしょう。その観点から貴社のホテルは葉山町の自然環境を少なくとも乱して、若しくは破壊している印象が極めて強いです。もし「calm blue sea and deep green forest」に魅力を感じるようでしたら、どちらにも真四角の形態は存在していない事にも気づいていただければありがたい。貴社のホテルは真四角で灰色/黒、前面殆ど黒のものです。それは「blue sea and deep green forest」と調和する「本質を捉えたデザイン」と本当に信じているのでしょうか。昔の日本建築巨匠の伝統と精神は何処に消え去ったでしょうか。海岸から見れば真四角の黒いコンクリートブロックは眼にも心にも痛々しく写ります。お客さんは中にいるから自分(ホテル)のが見えないで海の眺めを楽しめるため、町民はその何ともいえない姿を耐えなければなりません。「a sophisticated façade, that excites the adult sensibility」:私も一応「成人」のつもりですが、上記の通り私の「sensibility」はどちらかと言えば苦しめられています。車庫に並んでいる殆ど東京ナンバーの高級車でいらっしった方々のsensibility がexciteするでしょうか。それともこの黒いコンクリートブロックは自然界と全く調和しない事を感じないようでしたら、残念の気持ちで嘆きたい。

「世界人類の多くは、今や機械文明というものに噛み殺される。

真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、

人を殺さざるべし」

田中正造