Client obligation!

As a translator I am ALWAYS asked to transform some meaning from one language into another. That’s what I am paid for. And clients therefore EXPECT me to provide “perfect” translations. However, this may not always be as simple as it sounds (or some dictionaries try to make believe). For example, the other day I was asked to translated some materials for a company intern presentation. I just got a list of words, no context. And the terms are “insider jargon” that cannot be understood without additional explanation and, naturally, do not in any dictionary. A while AFTER I submitted my translation WITH a number of questions, the client provided some of the required specific information and a few links to relevant websites. But before I obtained this information, the agency asked me to go over the text again and “carefully consider” the selection of tranlation terms. I wrote them back that I am always carefully considering what I do AND can rely on 20 years of experience. Yet, that does not mean that I can always decide all by myself what is the “most appropriate” translation for certain terms. The agency then continued “We can understand your feeling of confusion regarding the lack of sufficient background knowledge …” Yet, this is NOT a matter of feeling. Clients are trying to communicate = share meaning with other people. My job is it to help them, but use ONLY THE WRITTEN WORD. That means, there is no gesturing, body language, voice pitch etc. Maybe  a few graphics or even pictures. Still, the written text carries most of the message (as opposed to spoken language!). In that case the words MUST have a well defined meaning readily understood by both parties. If those meanings are left mostly or entirely to assumption(s) by the various parties that try to share the information, a meaningful communication is close to impossible. It might be of interest to hear what specialists like cyberneticians, computer scientists or just plain linguists would have to say about this matter. (Scientists like to DEFINE everything they are going to do/say, in order to eliminate ambiguity.) By the way, this very foundation of information exchange had already been established and of pivotal importance in ancient Greek philosophy! If the source text / material is not clear, people should NOT blame the translator for doing a poor job, because s/he can work only with the material provided. (Actually, in my special fields I provide a lot more, even correct errors of the manuscript during the translation.) So, if the original material is ambiguous or of poor quality, you cannot really expect anything but a poor quality translation or even outright nonsense. A carpenter cannot build a nice house with rotten wood! In the document mentioned above almost none of the problems encounter could be solved by using dictionaries, because it was INSIDER LANGUAGE that does not appear in any dictionary! It needed the topic specific information from the client – first hand!  So, I think it would be only fair that a translator can demand of the client (through the agency) to provide clear (both in meaning AND visual appearance) source texts AND whatever subject specific information they have. This is an obligation the clients have, when they wish to obtain translations that are well received by the people for which they are intended!

日本と情報

Information is passed along in many ways  

旅行するたび、又は外国人の友人あるいはお客さんとの話においていつも一つ妙なことに気付きます。日本は世界中から膨大の情報を取り入れ、国内にあらゆる形で分配します。どの小さな街角の本屋さんにも世界各国の本の日本語版の本を多数が置かれています。しかし、その反面諸外国において本屋さんに日本語の文学、あるいは他の分野(これに関して特に私の専門分野の東洋医学について詳しい)の翻訳文非常に乏しい
先日ドイツの大きいな本屋さんを訪れ、置かれていた日本語の翻訳本片手で数えられるようなものでした。
1200年あまりの伝統に恥をかかせるものも見掛けた事もあります。

Thus, because other countries are not really looking, and Japan itself does not actively provide this information, Japan seems to be still a sort of “undiscovered island”
along the so-called information highway!

I would gladly offer my services to anybody (publishers, companies, etc…). Maybe in this way I could also help a large portion of the world population finally get access to a large body of valuable information on Japan.

何ですか?

本職は鍼灸師だが、生活費は翻訳で稼いでいる。今回翻訳者の立場から2-3点を指摘したい。

 どの分野でも同じだが、専門家しか分からない用語もあり、専門家と一般ン人は違った解釈する用語もある。最悪の場合異なった文化圏の人が同一用語を全く別の形で理解する。当たり前だ。しかし、これを忘れる人は案外に多い。例えば私は自宅で夕食の時「座りましょう」と言えば当然正座の事を指している。故郷で同じ事を言えば当然椅子に腰を掛ける事を意味する。同一人物が同一言葉を使って異なった意味を表す。当たり前の事であっても、使用する言葉を越える情報がない限りに伝えたい意味を正しく理解する事が非常に難しい。

 東洋医学の分野には科学に比べて曖昧な表現が多いから、「使われる用語の意味合を煩い程明記する」事を進めしたい。東洋医学関連文章を翻訳し、良く依頼主から質問も来る:瘀血〔例〕は英語でどう表現するか。海外では西洋医学的立場からアプローチされる事が多く、本来中国語の概念を解釈する可能性は幾つもある。実はこれに関して世界的権威が盛んに議論するところだ。

 東洋医学に関して中国の思想が世界を支配している。同じ東洋医学が日本に於いて1500年にも及ぶ歴史に於いて独自の発想を生み出したのは決して少なくないが、世界に殆ど知られていない。その理由は上記の表現が曖昧さと文章力の貧弱さにもある。「ほら、あれだよ」のような発言は日本に来る前に意識するような形で聞いた事ない。そして、そう言うことを言わざるを得ないのは心を痛めるが、日本語で書かれている専門書や学術論文の表現力が乏しいものが多い(私は言える立場ではない!)。ならば翻訳される日本語の元本が非常に少ない事も驚かない。以前にも指摘した事あるが、日本は東洋医学に関して世界に向けて大事な情報発信地であるべきだと思うから、情報を伝達する「言葉」をもう一度考え直す必要あるだ。

「翻訳者はBookfinderである」

==> 記事のスキャンもあります、JPGファイル:Page1        Page2

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つい最近まで軍隊では未知の地域での進路を探るために「スカウト」や「path finder」と呼ばれる者を使ったという。(path・finder n.[count]one who finds a way, esp.through wilderness or unexplored area.  RANDOM HOUSE WEBSTER`S DICTIONARY of American English) 彼らは文字どおり、普通の人間には見えない道を発見できる能力を持っていた。

 最近私が参加したある国際翻訳会議において、複数のセッションで話題になった問いがある。それは「つまるところ翻訳者の仕事、職務とは一体何だろうか」というものだ。この問いの答えは一見簡単であり、明白に思われたが、実際には出席した翻訳者や翻訳会社の代理人からは数多くの、極めて多様な答えが提出された。この事をきっかけとして、私は以前から表現したいと感じていたことをこの小さな記事にまとめることにした。つまり、翻訳者は上記のpath finderと類似する役割をもつ“bookfinder”であるべきではないか(もしかするとそちらの役割の方が主かも知れない)、ということだ。以下はその簡単な記述である。

 私は既に18年間フリーランスの翻訳者として仕事をしてきているが、その間ほぼ全ての時間を、ある言語で書かれた意味をもう一つの言語に移し変える、という作業に費やしてきた。「翻訳」といわれるものだ。もっとも時として原文の質が悪かったり曖昧だったりする場合には、書き換えたり創作することすらあったが。しかし、基本的な考え方は常にA(の言語)をB(の言語)に変換することである。過去十数年間にこの仕事を通して知り合った仲間の中で、このことに疑問を持ったり異義を唱えるものはほとんどいなかった。これは紛れもなく翻訳者の仕事なのだ。

 しかし、得意分野を持っている翻訳者なら、プロとして専門分野についてかなりの量の読書をこなしているだろうし、他の分野についても視野を広げるために興味を持った本を読むだろう。また、個人的に何か研究していればさらに多くの本を読むに違いない。このことが、翻訳者に独特の立場を与えるのではないか、と私は考ている。翻訳者は単に2つ、又はそれ以上の言語を、専門家として利用し評価する能力を持っているだけでなく、ある特定の題材に関して、これらの言語で書かれている関連書(レファレンス)を読むはずだ。それらの中には評価の高い本もあるだろうが、一般的な評価が存在しない場合がほとんど、といってよいだろう。この場合、翻訳者自身がそれらのレファレンスについて言語的、技術的に評価することになる。

 これは私見だが、現在市販されている翻訳書を見て、その選択が専門的知識に基づいてされている、とは思えないものがかなりある。このような場合、どの本を翻訳出版するかという出版社が下す決定は、かなり疑わしい情報や推薦に基づいて行われたのではないか、とすら思えてしまう。その結果われわれ一般読者にはかなり偏った、そして当然ながら、いかに沢山売るかという利益志向に基づいた出版物が提供されることになる。このことは、われわれが健全な世界(観)にアクセスする機会を大幅に限定することになってしまうのではないだろうか。

 一方、今日インターネットの普及によって、膨大な情報が極めて短時間で更新されていく「情報ハイウェイ」へアクセスすることができるようになった。しかし、この恐ろしいほどの情報量へのアクセスは、書籍が提供できる明確な、実用的な、包括的なそして興味ある情報へ視野を塞いでしまう可能性もある。私としては、読書は楽しみでもあるべきだ、と思っているのだが。つまり、インターネットが情報収集の手段として大変有益であるのを認めた上で、一体誰が高速道路(=インターネット)に面して建てられた家に住みたいと思うだろうか、という疑問がわいてくるのだ。私個人としては小さな裏道が好みである。ここに書籍の出番があるのではないだろうか。本を出版するのはウェブサイトを更新するより、遥かに時間がかかる。それは本の方が必ず、幾分か「遅れている」ということを意味しているのだが、それによって本の持っている価値が損なわれるとは思えない。

 私は日本在住のドイツ人だ。日本では町の普通の書店で、日本語に翻訳されたドイツ文学・科学などの本が無数に売られている。しかし、ドイツに帰国した折に大規模の書店を見てまわっても、ドイツ語に翻訳された日本の本は片手で数えられるくらいしか見つけられない。数年前、東京国際ブックフェアを訪れて、ドイツの出版社のブースに立ち寄った際、ドイツで日本の本を翻訳出版することに興味を持っているか、と質問してあっさり断わられたことがある。つまりこうだ。「いいえ、何故でしょうか。当社は既に2冊も出版したでしょう?」。これが毎年ドイツ国内で新刊を何千冊も出版する国の妥当な対応とは到底思えないのだが。その結果、世界の国々に経済で大きな影響を及ぼすスーパーパワーである日本は、相変わらず他の国々の人にとって、知的な面ではブラックホールのような未知の領域にとどまっている。これだけ情報ハイウェイがわれわれの生活深く浸透しているにもかかわらず、である。私にはその理由は、ネット上のバーチャルな資料とは違う、本のような手に取れる実体としての情報の少なさにある、と思えるのだ。

 ここに、翻訳者が国際理解のために本当に貢献できる分野があるのではないだろうか。翻訳する価値のある本を選び出す、推薦する役割が。場合によってはある本を推薦する翻訳者は、同時にその翻訳を担うことも考えられる。多くの場合、これは翻訳者にとって有利であるだけでなく、読者にとっても有益なのではないだろうか。

ダイエット (減量)

翻訳の仕事関係でいつも深夜まで働いている(食事後暫く休憩を入れて)。
食事の際ビールやお酒少々でも飲めば、その場で眠たくなり、寝てしまう事が多い。
よって、深夜まで仕事して、「今日はこの辺まで・・・」と思ったら、お酒少々飲みながらぼーとしてテレビを見てから寝るのは習慣になった。お酒一杯は未だ許されるかもしれないが、飲みながら美味しいおつまみがないかを思いながら冷蔵庫を開けてしまうのはさいなんの始まり。

お陰様で2009年の7月に体重が三桁(100kg)まで増えた。行けないと思いながら「減量」する決心した。結局「先生」(前に生きる=模範)として患者に手本を示す使命があるはずなのに、自分は何もしない事は先生の失格にもなり得るでしょう。

そこで食べる量全体を少し減らし、深夜の酒も減らし(出来ればおつまみもなし)、そして再び好きな自転車を乗る事にした。今頃略毎日約一時間一所懸命に走っている。定番のコースは例えば治療院から江ノ島まで往復、それとも治療院からでも自宅からでも湘南国際村の山を越えるコース。

現時点(2010/11月)では体重は凡そ23 kg減った
「やれば出来るな」と自分でも思った。
この春に「第二ステージ」を挑戦してみたい:更に5-6kgを減らす。
成功すればやっと「正常の体重」領域に入る予定。

私のブログにもあり、そして読売新聞にも掲載されたことある。

「経済効果」:昨年四月から計三回通訳の仕事に出かけた。四月の段階は結構太ったので、技とお出かけ用の豪華の服をかったが、今現在それを着ればピエロのように見える。逆に、もう十年も前から刷けなかったズボンや切れなかったシャツまた入るようになった。片方は大損したと同時に儲けた所もあった。どちらがいいかが良く分からない。

もう少し頑張る。

これは長男の成人式:6年前。その後またかなり太った。                                                                2010年。三男の成人式の時。

2009年の4月にとく大サイズの専門店で購入したズボン。仕事(お出掛け)ように買った。買った当初にはちゃんとフィットしたんですが、約10ヶ月経って凡そ21kg減量して、復周りも20cm余り縮小してきた。

高いズボンは合わなくなってきたが、その代わり20年間刷けなかったズボン今普通に使っている・・・

足の事再認識する --- 裸足

腰も頸も痛くなり、動きが不自由になったり、全身の安定感が欠けている。そして肉体的の安定感のみならず精神的の安定感もいま一足りない。主に体だが、心も「ふらふら」する。場合によって患者が「めまい」=ふら付きを訴える。

案外可能性のある原因として視野に入らないのは「足」です。

文明社会は系統的に「足を馬鹿にしてしまう」と私は思う。要するに、所謂文明のある場所 = 町では殆どの領域が人工的に平らにされた:歩道、車道、広場など、建物中、乗り物の中・・・どこでも。おまけに文明人は朝から晩まで文明の象徴の一つとなるファッションに属する「靴」と言う道具を足につけるため、足底の環境は常に一定して、刺激を殆ど受けない。ファッション性の高い靴をはいって、異常な姿勢(ハイヒールなど)から生まれる異常な刺激を除けば。

ただし、人間の場合二本の脚の足底は体重を受けて上手に地面に分配する仕事と同時地面の特徴や重心の動きなどを迅速かつ正確脳に伝えるために出来ている。そのような刺激を排除するとこの刺激を処理するためにプログラムされている脳が飢えてしまう。看護に携わる人なら誰に聞いても分かるような事実は、今まで元気なお年寄りが何かの理由で暫く寝たきりになると、2-3週間さえあればまるで別人になってしまう - つまり「ぼける」。

よって、自分のあしをもう少し信じて、体を預ける事をしましょう。出来れば裸足で歩き回ると尚よいでしょう。少なくとも自宅の内に!

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足の事再認識する --- 裸足 (2)

先日足と文明社会の話題を挙げた。今回は普段余り聞かない足に関する解剖、神経学などの難しい話題にしておく。

まず、人気テレビ番組の好きな表現:「更に驚く事実を発見!」

「足」 - 余り深く考えない人が多いでしょうが、この傍役は実に複雑で高感度の「器官」だ:

足は26個の骨、33個の関節、107本の腱および19本の筋肉を含んでいる。

体の25%の骨は足に含まれている。そのバランスは全身に影響を与える。

足に125000個の汗腺ある、大半は足底にあり、毎日足から0.25lの汗がでている。

更に、脳の中で体の各場所は均等的に支配されていない。視用頻度の高いや、常用度の高い場所のため脳の神経を大量つかう。脳は体のどの部分でどれぐらいの割合で「力を入れて」いるのは次の図が示す。手足は体全体より多くの神経を使ってしまう。

しかし、文明人は自分の足はいつ何をしているかが全くと言って言いぐらいしらないようだ。

宿題:日曜生活の中で体重を踵より**少し**前のほうに移動して活動してみてください。体重の「重心」は足背の一番高い所に来るべき:土踏まず。カメラの三脚と同様:重心は脚の上ではなく、三脚の間に出来る空間に置かれると安定性が最もいい。

少し考えてみてください。

日本医師会へ

先日「医療問題」に関して駄文をブログのせた。医師会、厚生省、新聞社などに同じ文章を送信した。
その中に問題のは日本医師会だと思います。先ほど再度医師会にメールをそうしんした。それに対して反応来るのだろうか:


日本医師会へ

拝啓
生意気な事を申し上げるのも大変失礼ですが、一言不満を表現させてください。

貴団体は自ら国民の意見を招いている:
貴団体HP: 「日本医師会は、みなさまの声を、国に訴えかけていきます。ぜひ、みなさまの声をお寄せください。」

それに答えて先日私の意見をそちらに送信しました。しかし、反応を一つもありません。(初めてではありません!)新聞社の場合こちらの意見を特に聞きたく ないのでそれが「普通」でしょうが、貴団体は「ぜひ、みなさまの声をお寄せください。」と意見を聞かせて欲しいと表現しているので、実際意見を寄せてしま われるならば、個別に答えなければ少なくとも厚生省のように「自動返信」で「はい、貴方の声を確かに聞こえました」と伝えるのは礼儀の最低線でしょう。技 術的(費用)にもどこにも問題ないはずです。

現状では「貴方の意見を聞かせてください」と言いながら「貴方の意見なんてどうでも良い」との体制を取っています。
それはこの国のエリート団体の一つとして相応しい態度でしょうか。

参考:厚生省から自動返信
ご意見・ご要望ありがとうございました。
www-admin@mhlw.go.jp から
厚生労働省です。この度は貴重なご意見・ご要望をいただきありがとうございました。
頂いたご意見は今後の厚生労働行政の参考にさせていただきます。
これからも厚生労働省をよろしくお願いいたします。

医療 - 問題の多いテーマ

先日、5月14日の読売新聞に東京都医師会が一面を使って「東京宣言」を公表しました。
75歳以上の患者にちゃんと治療しますとの約束をしました。この業界の危機を象徴的表し、強い違和感を私に与えました。

先書きましたが、私は小さな鍼灸院を開業しているドイツ人鍼灸師です。鍼灸師として毎日臨床現場で「医療」を携わります。多数の患者の悩みも聞きますし、 現代医学治療の問題に間接的、又場合によって直接的「見えます」。私は学者ではないので、諸問題の解決策は提供できませんが、現在多数の問題が重なる中で もしかして思考パターン(コンセプト)を少々変えるべき時期が来たと思います。これに関してこちらの見方は参考になれば嬉しい。

1.行政
2.医師
3.医療
4.その他

行政
 大分前になりますが何時か厚生省に訪れた事あります。残っている印象は:恐ろしく長く、天井の低い暗い廊下、そこから分岐する部屋。その部屋は外界と繋 がる窓もない、多数の机が無秩序で大量の(どちらかと言うと汚い)資料に覆われていました。そのような環境でお仕事をする方々は医療の現場が見えないで しょう。行政から何かの「新しい制度/決まり」が発表された、既に20数年前(私は病院で勤務していました)医療現場で働く人たち(医師、看護師など)は 悲鳴を上げました。
 時々そのような新しい制度の信憑性をあげるため、大学の教授、有識者、統計学や「科学的根拠」を頼る事もあります。しかしながら、そのような情報源はやはり現場を知らないので、「雲の上」の生活を送っているのは現場の人間全員思っているでしょう。
 行政的に多数の問題に関して何かの取り決めをしなければなりませんのは残念ながら事実です。ただし、現在問題が多すぎるため医療制度そのものが既に崩壊 し始めている中では、雲の上で夢を見ている方よりも、現場で毎日体をはって現在の医療制度を実際に支えている人々の声を聞くべきでしょう。

医師
 医師、または医者に関して歴史的の背景もあるから、私のような愚か者は論じるべきではないでしょうが、幾つか妙な点はあります。先ず、医者だけではな く、「医者様」と呼ぶ事を良く耳にします。難しい事を勉強し、人助けに力を注いでいる人に対する敬意を表すのも結構ですが、相手が余りにも偉いようでした ら患者との「普通」のコミュニケーション (communication = share something) が旨く取れなくなることあります。「お」医者「様」が患者に如何ですかと聞いても、多くの場合患者は本音で答えないで、お蔭様で・・・との態度をとりま す。しかし、仮に病院の後に私の治療院に訪れると愚痴をこぼし、医者に対する不満を表現し、又は医者に言われた事に関して私から「解説」を求めます。毎日 のようにこのようなことが起こりますので、医者は自分と患者の間かなりの溝があるのは気づきません - 気づくはずもありません。
 初心に戻って「医は病を治す工である」の精神を復活させ、国民の指導者でもあるべき医者はもう少々背を低くして謙虚になると大いに助かります。
 無論その反対も同様にいえます。医師に対する患者の態度にも大きな問題あります。深刻な問題は全くないのに取り合えず病院に行こうと言う態度は改めるべ きでしょう。先ず、本人は出来ることをやってみて、それでも問題が残れば、専門家を聞けばよい。「商品のトラブルシューティング」は皆そうです。私の患者 に「主人はもうなくなったし、犬もいないから、ここに来させてください」と言う人がいます。私の治療は国民健康保険を使わないから良いですが、どこか妙な 考え方。同じ患者は日頃高血圧のためにも受診するそうです:脳神経外科に!
 したがって、一方患者の行きたがる態度と一方医者が患者を定期的来させる思考(例えばちょっとした怪我の人を毎日「消毒」の為に病院に来させる)が重な り、最終的「医者依存症」を作り上げます。私のモット「患者を来させないことが私の仕事だ」は以前一度雑誌で公表されたとき患者も同業者もびっくりし、怒 られました。

医療
 さて、最近単に色々な問題が発生しているだけではなく「医療崩壊」と言う概念まで発展してしまいました。それ故に上記の「東京宣言」が発表されたでしょ う。医療費が高い、介護費も高い、高齢者の割合も持続的に上昇します。時期に医療制度そのものを支えきれなくなり、崩壊するだろう・・・
 それは第三世界貧困地域/社会と同様です。ご存知のようにWHOは1980年代に「HFA2000 = Health For All by the year 2000」(全世界の人々に2000年度まえ健康な生活を提供する)と言う計画が考案され、その実行の可能性を探るため色々な調査もされました。調査結果 は “Traditional Medicine and Health Care Coverage”, WHO 1983(世界伝統医学大全、1995)、R. Bannermann, ISBN: 4-582-51311-5に纏められ、出版されました。結論:現代医学(西洋医学)だけでは世界の人々に健康な生活を提供する事は出来ません!その結果 は既に25年前に明らかになりました。今日「医療後進国」(以前私が書いた文章:http://www.einklang.com/download/behind.htm) になった日本そのような25年も前の知識を目覚めなければなりません。
 更に、「医療」とは裕福階級の世界にしてしまうのは決して得策ではないでしょう。つまり、医学部に入りたいにしても、先ず金銭的にかなりの余裕がないと 医学の勉強は不可能になります。そして医師になったら先ず金銭的な心配は一切要りません。先日テレビで「医療崩壊」を話題にした番組中ある医者が以前病院 に勤めたが、その仕事は余りにも大変ですから退職した。その後「フリーター」と言われる形 で仕事しました。それによって収入は以前よ りも50%上昇した:年収=6000万円、以前は4000-4500万円。それはご立派です!
 年収=6000万円=月収が500万円! 私の治療院やっと年の売り上げが300万に達しました。翻訳の仕事分と合わせて年収が4-500万。しかし、親は子供を医学部に入れるためのお金があるだ けでは、卒業する医師はその素質があるとは限りません。日本は自分の医療制度に対して何らかの危機感があれば、先ず優秀の人材を作る教育課程を見直し、そ の教育費を税金(?)で賄いながら医者になる素質/人格のある人材を育てて、医師の仕事は職人の仕事だと再認識し、そして職場の労働条件(臨床-当直-臨 床=36時間勤務)をもっと人間らしくしたほうが良いでしょう。
 少々脱線かもしれませんが、ドイツ語では「仕事=職業」は “Beruf” と呼びます。この単語は「”Berufung” = 召命」から由来します。もし医療従事者になるのは上記の「召命→使命 =  “Berufung” =天職」だと信じるようでしたら、患者の為命を捧げて全力尽くすのは当たり前です。ただ、医療従事者も人間ですので、体力の限界は あります。無理の勤務体制の為に体を壊してしまえばこそ、患者の最大の迷惑になります。患者にそのような迷惑をかけないため、適切は休みを頂くのはどこに も悪くありません。同僚など(病院の人事部を含む!)もこの人は上記の意味で天職を従事すると分かれば、少々休んだりして批判は出ないはずです。

その他
 要するに、医療、又は医師-患者関係、利用する医療手段(現代医学、伝統医学)などの概念は考え直すべきでしょう。多分医療の効率はどのようにあげられ るかを考えるのなら投薬の削減、病院のベッド数の削減、保険制度の小細工などではなく、人の治療に於いてもう少し “holistic” なアプローチをすべきでしょう。一人一人の患者をもっと丁寧に、もっと時間を掛けて診れば、最終的その患者はそんなに頻繁に来なくて済むのではないでしょ うか。

 私は残念ながら「有識者」ではありません。私は単なる三流の職人に過ぎませんが、職人が学者が見えないもの必ずあります。私の声は恐らく何方にも届かな いでしょうが、ここ自己満足のため簡単に纏めたのは「拙者」の意見です。更に具体的なことは沢山言いたいが、時間と場所がないため、又別の機械に委ねた い。

医道四弘誓願:
疾病無辺誓願療
病因無尽誓願断
病理無量誓願学
医道無上誓願成

原文:

  • 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) – 地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願
  • 煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) – 煩悩は無量だが、すべて断つという誓願
  • 法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) – 法門は無尽だが、すべて知るという誓願
  • 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) – 仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願)

鍼灸師 - 万能か

現在鍼灸治療の「科学的根拠」は未だ不完全、又は研究そのものが未だ始まっていないから日頃医師や本人たちが「科学者」と名乗っているものに馬鹿にされること決して稀ではない。研究「科学的根拠」の究明は進まない主な理由は医学部と違って製薬会社などの莫大な研究費を提供するスポンサーがいない。
”本人たちが「科学者」と名乗っているもの”と言う批判的に聞こえる表現は次の意味ある:”science” と言うのは本来 “empirical science”(経験科学)を意味する。つまり、観察して真実を求める。しかし、鍼灸に関して頻繁に科学者が「根拠(データ)はないから,効くはずはない」と言う非科学的な表現がある。根拠が分からなくても治療そのものを観察(出来れば体験)し、目の当たりにするものを評価してほしい。

 だが話題がずれる。よく馬鹿にされる鍼灸師はどれだけ大変の仕事をしているか少々考えましょう。鍼灸師会の広報にいつか一つの統計が公表された。一年の治療の総数は医療施設別(大病院、医院、鍼灸院など)そして先ず診療科別とその内病気別に表された。一覧表を見ると**鍼灸**に掛かる患者がたった一つの項目ではゼロだった:お産。
 その他すべての診療科、全ての病気で患っている患者は鍼灸院に訪れる。骨折のある患者は内科に掛かると内科の先生は恐らく「専門外ですから整形外科に行きなさい」と言うでしょう。他の病気は勿論同様である。しかし鍼灸師はそれを言えないで何とか治療を挑戦せざるを得ない。つまり、鍼灸師は**全て**の西洋医学分野を少なくとある程度勉強せざるを得ない。その上に自分の専門分野東洋医学も勉強しなければならない。それてもしかしたらかなり大変ないかはか。

姿勢を正せ

あなたは治療者の失格だ」とよく言われる。

 その理由:

日本人の略全員が少なくとも一時的に肩凝り、頭痛や腰痛などを訴える。

これらの主訴は大部分不良な姿勢による事が一目瞭然。

私はそのことを指摘すると、患者に「責任を押し付ける」ため批判される:「疲れているから仕方ないでしょう。正しい姿勢保つ事出来たら苦労はしないよ。」

しかしそれは良くても錯覚だ。

人間を疲れさせるのは、宇宙の最強の力である「重力」だ。

地上に居る限り、絶えず(!)体を地球の中心に向かって「引力」を掛けて、立ったや座った姿勢を崩そうとしている。

そして重力は情けを知らない。

「疲れている人は可愛そうだから今日は半分の力で引っ張る。。。」なんて事はない。

意識的または無意識的でも宇宙の最も強い力に逆らおうと思ったら所詮無理だ。

「正しい姿勢」は疲れそうに見えるが、実際消耗するエネルギーは最低限となる。

疲れているこそ姿勢を良くすれば、引力による負担は最低限に抑えられる。

つまり「楽になる」。

正しい姿勢を取ると美しいー花篭を運んでいる女性の絵を見て下さい。

正しい姿勢は強い!アフリカの女性の映像を参照。重い物を楽々と運んでいるようです。多分そのまま家まで数キロメートルも歩くでしょう。日本(欧米も同様!)ではそれを出来る人は略居ないでしょうが、高齢で背骨が変形していない限り、その姿勢を絶対に取れない理由もない!

東洋に於いて仏像を見れば、正しい姿勢の見本ばかりだ。決して偶然ではないでしょう。

私は患者にその正しい姿勢と取るように指示すると結局2年前に週刊朝日の「増刊漢方2003」に掲載された記事「商売抜き、信念を貫く異色鍼灸師」のサブタイトル「患者を来させない事は私の仕事だ。」 の如くになる。

http://www.einklang.com/Kanpo2003.htm#page1 

http://www.einklang.com/Kanpo2003.htm#page2

姿勢を良くすれば多くの症状は自然と改善し、患者が来なくなる。

それで宜しい。

姿勢を良くするのは本人の努力しだい。

他人に「やってもらう」訳にはいけない。

姿勢をよくすればいい事はいっぱい: 

がんばりましょう