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「気」と言うものは真に不思議なもので、その実態についてとても「簡単」には語れない。しかし、東洋医学を営む上に、どうしても一言は言わざるを得ない。
気 - その存在と運営、操作は東洋医学の真髄だとは過言ではないでしょう。気は人間の体の中(それぞれの臓器、経絡、血液など)と外(外気、天気、環境の変化、他の生物など)にも充満していると考えてもいいでしょう。そして常に変化し続けていて、決して「静止」はしない。
気の流れは患者-治療者の関係も、治療効果にも決定的な影響を与える。

最近何でも「科学的根拠」を見出していかない限りその存在を認めないと言う時代の流れだが、現時点では気の「科学的根拠」はまだ納得の出来る形で示されていない。そのため気に巡る議論は永遠続いている。


歴史的及び地球規模的(グローバル)を見てみると、全ての時代に、全ての文化圏には類似の概念がある。単なる偶然?
「科学的根拠」はまだ特定できないから「気が存在しない」結論に飛びつくのはいかにも「非科学的」だ。その正体を測定する装置がない、捉える概念が定義されていないだけかもしれない。つい最近(2013年の春)に全世界に揺るがす出来事があった:「ヒッグス粒子が発見された」。聞きなれていない言葉だろうし、一般庶民には全く関係ない事でしょうが、例のヒッグス粒子の存在は長年に「推定」された。その粒子が存在しないと現在の物理学(科学!)の基礎が完全に崩れてしまう=成り立たない。なのに今年までその粒子の存在を証明する証拠の影も形もなかった。

もしかして「気」の正体は zero-point energy (http://en.wikipedia.org/wiki/Zero-point_energy) にあるか・・・


今まで証明出来なかったから存在しなかった訳ではないだ!同じく:電気、磁場、微生物(感染症)などなどにも言える。黴菌の存在を証明出来なかったからいなかった訳ではない。感染症が世界中絶えず無数の人の命を奪う。それは幻しいではない。
気は恐らく同じものだろう。いつか技術の進歩で正体を突き止めて、測定する事ができるようになるだろう。その時まで少なくとも東洋医学においてこの不思議な力を操作するのは我々「鍼灸職人」だ。

病気

「病は気から」と言う慣用語は誰でもしている。あらゆるの病は多かれ少なかれ「気」によるか「気」に影響を受けるのは東洋医学で考えている。
したがって、来院する患者はその「病の気 = 病気」を持って、出来る限り早くなくしたい。その気持ちは良く分かるつもりだ。では具体的には・・・
患者が自分の病の気を治療者に「取ってもらいたい」、言い換えれば治療者に送り込み、その代わり治療者から「元の気 = 元気」、つまり健康である能力を受けたい。
治療者はこの「病の気をなくして、元の気を取り戻す」過程において単なる仲介役(理想的に)ですが、やはり「気をつけない」と病の気の渦に巻き込まれる。つまり、治療者は病の気のゴミ箱のようなものだ。そして、どのゴミ箱は何時かいっぱいになる。治療者は病の気で満杯になってしまえば、治療も出来なくなるし、自分も病気に成る。
 自然界から新鮮な「気」を取り入れて「充電」しないといけない。私はそのため定期的海に行って、生命の母に手を翳していらない病の気を放出してから新鮮な気を頂戴し、海(空、大地など)に感謝する。

メニューなし治療院

時代の流れでしょう。ほぼ全ての治療院/医院は何かの「メニュー」を使っています:治療時間はコース次第5分や10分単位で、それに伴う治療費もまた細かく区切られています。場合によって5円単位。
基本の治療に○○治療手段が追加すれば、あるいは治療時間が通常より何分延長するならばXXX円追加料金が加算されます。

それはきっと「普通」の営業方法に違いありません。

しかし、私は個人的どうしてもそれに賛同出来ません。

来院する者は「病」に「患って」いる「人」=患者です。
その人は部品の集まりではありません:左膝に症状あれば左膝のみに治療するのは修理工場のようです。筋骨の問題でなければ、更に別の工場に訪れる必要あります。それぞれの工場では取り扱う「部品」は「診ます」が、「人」=患者を見失われる危険性あります。

東洋医学は本来「人」を診るものです。
医術に関わる者は「病」に「患って」いる「人」を診るべきです。それは東洋医学だけではなく、西洋医学の父と言われる古代ギリシャのヒポクラテスも同じ事を言いました。伝統医療の職人として私はそれを信じて「メニューなし治療院」を営んでいるつもりです。
可能であれば、患者を「病」から解放に必要な治療手段を全部施し、治療時間の制限も特に設けていません。治療には必要な手段を全部使い、全身を診るため必要な時間をかけます。追加料金は過去30年間に請求したことありません。
この治療方針はこれからも変える意思ありません。

町並みは地域社会のアイデンティティ

(飽くまでも個人的な意見)

「 町並 み」と言う 言葉 はよく聞きます。 自分 の 伝統 を忘れつつある 現代 日本 社会 ではそれを „My town“ と呼ぶ人々も少なからず。旅に出かけて「あの町の 町並 みは綺麗ですね」とか「あの町の 町並 みを見るとほっとする」などの 表現 は 頻繁 に耳にするし、 自分 でも使います。 都会 の嫌いな私には 最近 葉山町におきる 変化 を見ると悲しくなります。ここで 読者 に 大変 申し訳ありませんが少々 愚痴 を溢したい。

 この「 町並 み」は 辞書で見ると「町の道筋に人家 が建ち並んでいる様子。また、そのところ。」と書いてあります。又は〔 動詞 「なむ(並)」の連用 形 から〕(1) 世間一般にごく普通であること。

  町並 みは、特に 本来平凡の漁村であった葉山町、ある 一定 のスタイル、雰囲気、そこに住む人々の「共同表現」として捉えたい。その思考に基づいて「地域社会」が成り立ってくるではないかと思う。日本に於いてその地域社会単位は他の国よりも 綿密に出来ている感じもするし、 日本文化の正体 =ルーツ=根でもある。「元町」= 地域 の「根本、中心 」であり、 住民の原点となる。英語ではこの地域社会は”community”と言い、”common” (共通の,共有の, 共同)と言う意味から由来 する。 同様な意味はcommon place,common sense、unite, unity等に見られる。

 しかし、 最近の町並みはそのような役割 を果たしていないような気がします。「並」は「個人主義」の「波」に飲み込まれ、立ち並んでいる家、特に最近出来ている物はどこの 時代やどこに由来が不明で、本来開放感や通気性を確保するための窓はどちらかと言うと要塞の???に似て来た。開け閉めは出来ないものも多いので、適切に「羽目殺し」となっている。窓が殺された。

日本の長い歴史を通じてこの国の 気候 1)に合う 建築 、そしてそれを支えてきた世界最高峰の技術を持っていた日本 の大工さんは何処風が分からない技術を要しないプラスチック素材 組み立て式の 犠牲 となってしまった。だが暴走はそこ止まらない。「開発」と名乗って町中それこそ「日本」と連想させないマンションが次々と建築される挙句の果てに葉山町らしく狭い道路は高速道路のように広げる計画が実行に移されてきた。

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右に写って新築の家の壁に幾つかの「穴」があいているが、それは私の感覚では「窓」とは言い得ない。大きく開けて、日本の気候にあった形で風通し良くする事もできないし、掃除するのも至難の業でしょう。そして人間を歓迎するような friendly な窓(右上)よりも「銃眼」のように見える。

日本の伝統的な家作り(左上)なら、この国の気候にあった、極めて機能的且つ美しい「和風スタイル」はあったのに!

  日本の文化や伝統を憧れる私にはこのような動きは残念でならない。元々日本人ではないので 本来 の 意味 でここは私の「故郷」ではないかもしれないが、所謂心の故郷であった:小さくて、謙遜な庶民的な町。この心の 拠点にあった自分 の「ルーツ=根」が失いつつある事を感じるのは私だけでしょうか。英語では自分の故郷を無くしたことはいかにも”uprooted”と言う。偶然 か。 

1)  日本 の 気候 と 文明 に関して 清水 馨八郎の「 日本 文明 の 真価 」は 参考 になる。

Scapes

森戸海岸に “Scapes” と言うホテルが建てられた後に、そのホテルに連絡した事ある。ホテルのHPから表現を借用する:「穏やかな海と深い森を湛える」のような場所が好き。本来漁村のままであればなおさらに良いでしょう。鍼灸師として私は特に「自然」や「生態」等の概念に関して頻繁に考えるのは仕事柄でしょう。その観点から貴社のホテルは葉山町の自然環境を少なくとも乱して、若しくは破壊している印象が極めて強いです。もし「calm blue sea and deep green forest」に魅力を感じるようでしたら、どちらにも真四角の形態は存在していない事にも気づいていただければありがたい。貴社のホテルは真四角で灰色/黒、前面殆ど黒のものです。それは「blue sea and deep green forest」と調和する「本質を捉えたデザイン」と本当に信じているのでしょうか。昔の日本建築巨匠の伝統と精神は何処に消え去ったでしょうか。海岸から見れば真四角の黒いコンクリートブロックは眼にも心にも痛々しく写ります。お客さんは中にいるから自分(ホテル)のが見えないで海の眺めを楽しめるため、町民はその何ともいえない姿を耐えなければなりません。「a sophisticated façade, that excites the adult sensibility」:私も一応「成人」のつもりですが、上記の通り私の「sensibility」はどちらかと言えば苦しめられています。車庫に並んでいる殆ど東京ナンバーの高級車でいらっしった方々のsensibility がexciteするでしょうか。それともこの黒いコンクリートブロックは自然界と全く調和しない事を感じないようでしたら、残念の気持ちで嘆きたい。

「世界人類の多くは、今や機械文明というものに噛み殺される。

真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、

人を殺さざるべし」

田中正造

拙著の例

今年(2013)2月に出版された私の本は主にここにも挙げているテーマ = 養生 にかんするものだ。

日頃の生活でちょっとした工夫をすれば、何も買わないで、どこにも行く必要ないままで運動や自己管理が出来る。


ここ例として「歯磨き運動」のサンプルを乗せる。

医道の日本社で出版された私の拙著 「トーマス 先生の話を聞いてみませんか」 より

私の本から「医道の日本」2013年6月号に転載された分もある。

医療とお金

一方社会福祉に掛かる財源が既に足りなくて、将来が大変だと言われて、他方で「先進医療」(大変お金のかかるもの)と「医療産業」が進められている。先進医療は想像が絶するほどのお金が掛かるから、それを提供する会社や施設は喜ぶ一方で社会に大きな負担をかけることになる。無論裕福の人しか受けられない。又医療産業は一つのビジネスであっては結構ですが、本来「病人」、或いは病を装う/想像する人がお客さんとして必要です。言い換えれば、人々はなるべく病気になって貰う事はビジネスの基盤だ。

私は日頃お薦めする日常生活の中で自分なり意図的「不便」なものを見出し、それを「健康法」にするのはお金も掛からないし、特定な場所も決まったファッションも要らない。要するにビジネスは生まれてこない。どちらかと言えば現在行われている「健康ビジネス」を妨害しているようなものだ。

そう言うわけで企業/国/団体(医師会など)/保険会社などは私が常に発している戯言に興味がない - 敵対心までありそう。しかし、我子は現在既に加齢し過ぎた社会を支えるにはかわいそうと思われる負担が押して付けられている。私の戯言をもう少し耳を貸していただければ、そして東洋医学の知恵に目を向けてしまえば、現在年間(保険部分)約40兆円の医療費が大幅減少(25%??)させることが出来ると信じる。

生活環境と工夫

文明の利器に齎されている生活の便利さが帰って人を病気にするならば、結論は比較的簡単なものだと思う: 意図的不便な事をする。
下記の拙著例 - 歯磨き運動 - のように「必要ない」動きをわざと生活に取り入れることによって、「楽」と言った甘い罠から脱出する最初の一歩になるでしょう。
具体的どのような工夫をすればここで指定しなくても良いとおもう。それぞれ自分の生活に合ったものを考えて頂きたい。だが例えば洗濯物を干す→洗濯物の籠を洗濯機から干す場所まで運ぶ時、腕を伸ばして籠を体から放して運べば。
お茶やコーヒーを入れるとき薬缶を体から放してお湯を注ぐ。
二階に行く時階段のステップ一段ずつで足を乗せた時一端片足で体を押し上げる(爪先立ち)すると脚の訓練できる。等・・・

何か「不便」を作るチャンスは略無限にある。

治療手段

鍼を刺そうとしたところ

通常の置鍼(鍼を刺して暫くそのまま置いておく);
二本の鍼の間に電気を流す(短時間の微粒=パルス療法)(滅多に使わない);
鍼をやや深めに刺して、手で操作する=手技鍼;
小さな艾の塊を直接皮膚の上に燃やす;
敏感な人に艾の下に敷き紙を敷いたりし、間接的なお灸を行う;
温灸 - 艾と体の間に物(生姜の輪切り、や貝殻)を挟み、火傷しないお灸
指圧
マッサージなどの手技療法

写真: 待合室の風景;そこは時々変る

治療内容

鍼治療は極細い金属製の鍼を利用する。流派や考え方は多数あるが、一般的鍼は浅く(2-3mm)或いはやや深めの1cmほど刺され、そのまま暫く放置される(置鍼)。必要に応じて(深い所の筋肉を解すため)もう少し深く刺す場合もある。私個人の好みでいずれの場合患者に鍼による不快感、痛みそして良く「好ましい」とされる「鍼の響き」を与えない。
お灸の場合極小さい艾の塊を皮膚の上に載せて、燃やすが、火が完全に皮膚まで燃える前に指で囲む事によって火を消して患者に余り熱い思いをさせない。このようなお灸は新生児や乳幼児にでも施せるから、大人には全く問題が無いはず。

写真: 治療院の駐車場から見た前面。建物は大分老朽化しているが、それはこちらから何もできない。