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ご挨拶

私はきっと歳をとり過ぎたでしょう。
日本の良さの一つはご挨拶な気もするし、昔勉強しながら回りの先輩の先生方にもそのように仕込まれました。
以前にも触れたが、そういう先輩に「開業の際地域の同業者のご挨拶して来い」と言われました。
私は開業した際その通りご挨拶回りに行きました。
開業してから21年経っているが、その間ご挨拶回りに来た人はいません。

先日こちらの技術で対応出来ないため同(類)業者に患者を紹介し、治療を依頼しました。
「普通に」(医療者同士の間の礼儀)考えてしまえば、診察した後で、それなりの挨拶/報告があるのは常識な筈です。

・・・何もありませんでした。
同(類)業者だけではなく、整形外科医院もそういう事が何度もありました。

日本の良さを段々と廃止されるのは何とも言えない寂しい。
日本の良さを廃止して「他のもの」に置き換えているでしょうか。
その「他のもの」は何でしょうか。それなりの価値はあるでしょうか・・・・・

Projects

  • 外国人が日本で鍼灸を見学/勉強したい場合の応援
    • 日本の鍼灸師 - 力を貸して下さい!
    • 外国人見学希望者を自分の治療院等で見学させて下さい
    • (中に暫く「弟子」になりたい人もいるようです)
  • 鍼灸/東洋医学に関する和英(+独)の用語集を作成する
  • 可能であれば日本語の本を外国で出版してくれる出版社を見つける(翻訳作業)
    • 「治療家の手の作り方-反応論・触診学試論」 -  [形井秀一]
    • 出版社: 六然社 (2002/01)、ISBN-10: 4901609106
  • この本に関して以前オーストラリアから来た見学者が帰国後一所懸命宣伝してくれたため、出版社2件から「興味有り」との反応があった。
  • そのため本の所々から「サンプル」を取って英訳した事ある。ここに参考までのせる。
  • 中国ではどちらかと言うと「理論」が優先的に考え、○○証だと決めたら例の「標準経穴」に治療する。患者がその場所に反応が有るか否かが余り興味がないようだ。そこで形井先生が纏めてくれた日本の触診の優れた技術を是非とも海外の方に知って欲しい!
  • 私は翻訳者が単にある文章を他の言語の文章に翻訳する物だけではなく、どのような*** 文章 = 本 ***が翻訳する価値がある事を仕事柄上で見つける「専門家」である。残念ながら実際に翻訳される文献の選択はそのような「価値」と無関係で選ばれる。以前私の意見が雑誌で出版された:
  • The above book describes the highly sophisticated Japanese palpation skills acquired and required during good acupuncture therapy. Many Japanese practitioners rely in their treatment on the findings obtained through this kind of very sensitive touch, instead of the theory and pattern driven selection of the so-called “standard point locations”. I believe, a translation of this book would be an invaluable asset to western oriental medical community in general!
  • (The link points to an article I wrote about a translators function as a “bookfinder” (in analogy to pathfinder).
  • Translator as “Bookfinder”
  • Sample -> below

自作を通して養生を促し、(国の)医療費削減に貢献する (医療+金)

須原先生との出会いが私の人生に大きな影響を及ぼしたため、最近須原先生の本:
「出なおせ・見直せ」
を翻訳する許可を得て、これから翻訳の作業に入る。
出来たら電子書籍として公開する予定。2013年12月・・・少しずつ翻訳し始めた・・・

患者様 ・・・

この言葉は最近流行っているように見受けるが、どうも「腑に落ちない」。
* 「腑」は無論五臓六腑の「腑」であって、飲食物が臓器の働きによって「腑に落ちる」=消化されて伝播される。転じてある概念/思考などを十分理解しない/出来ない場合それが「腑に落ちない」。
私は「患者様」と言う表現が「腑に落ちない」。十分理解出来ないし、その使い方にも賛同出来ない。

患者は 「患っている者」であるのみ。
同じく医者は「医者様」ではない!
私の好きな言葉:「医は病を治す工である」(出典不明)
医も患者も普通の人間だ。神様、上様、殿様類ではない。
「医は病を治す工である」 - 私もその通りだと思う。
ならばその延長線で「大工様」で言う?言わないはず。
「八百屋様」???変だ。
お客様 - ま、時代の流れにてそれは何とかなれている。

当然ここに「あからさま」になっている「有様」は日本の社会に於ける上下関係だ。
「上様」では文字でさえそれを指している。
お客様はお金を使って自分の店の商品/サービスを購入するからある程度の「見上げるありがたい存在」かもしれないが、「患っている者」「病を治す工である=医」は先ず同等の人間同士である。適切な「治療」を可能にするため不可欠の信頼関係/人間関係は酷く上下の勾配に影響されると関係者の両方とも酷く歪んだ世界観で正しい見方=判断できなくなってしまうだろう。

時代とともに言葉の意味や使い方が変わってしまうのは承知の上だ。
例えば「貴様は何を考えているか」(今、私の発言に対してそう思う人もいるに違いない)と聞くと今日現在では余りいい気分ではないだろう。

き_さま【貴様】→♪[0](代)二人称。(1)男性がきわめて親しい同輩か目下の者に対して用いる語。また、相手をののしっていう時にも用いる。おまえ。「―とおれとの仲ではないか」「―それでも人間か」(2)目上の者に対して、尊敬の意を含めて用いる。「―は留守でも判は親仁の判/浄瑠璃・油地獄{下}」「(髪ナドヲ)―ゆゑに切る/浮世草子・一代男{四}」〔中世末から近世初期へかけて、武家の書簡などで二人称の代名詞として用いられた。その後、一般語として男女ともに用いるようになったが、近世後期には待遇価値が下落し、その用法も現代とほぼ同じようになった〕

私は患者は患者だ。
患者様ではない。
気をつけないと患者様は治療の妨げになり得るのではないか・・・

日本と情報

Information is passed along in many ways  

旅行するたび、又は外国人の友人あるいはお客さんとの話においていつも一つ妙なことに気付きます。日本は世界中から膨大の情報を取り入れ、国内にあらゆる形で分配します。どの小さな街角の本屋さんにも世界各国の本の日本語版の本を多数が置かれています。しかし、その反面諸外国において本屋さんに日本語の文学、あるいは他の分野(これに関して特に私の専門分野の東洋医学について詳しい)の翻訳文非常に乏しい
先日ドイツの大きいな本屋さんを訪れ、置かれていた日本語の翻訳本片手で数えられるようなものでした。
1200年あまりの伝統に恥をかかせるものも見掛けた事もあります。

Thus, because other countries are not really looking, and Japan itself does not actively provide this information, Japan seems to be still a sort of “undiscovered island”
along the so-called information highway!

I would gladly offer my services to anybody (publishers, companies, etc…). Maybe in this way I could also help a large portion of the world population finally get access to a large body of valuable information on Japan.

町並みは地域社会のアイデンティティ

(飽くまでも個人的な意見)

「 町並 み」と言う 言葉 はよく聞きます。 自分 の 伝統 を忘れつつある 現代 日本 社会 ではそれを „My town“ と呼ぶ人々も少なからず。旅に出かけて「あの町の 町並 みは綺麗ですね」とか「あの町の 町並 みを見るとほっとする」などの 表現 は 頻繁 に耳にするし、 自分 でも使います。 都会 の嫌いな私には 最近 葉山町におきる 変化 を見ると悲しくなります。ここで 読者 に 大変 申し訳ありませんが少々 愚痴 を溢したい。

 この「 町並 み」は 辞書で見ると「町の道筋に人家 が建ち並んでいる様子。また、そのところ。」と書いてあります。又は〔 動詞 「なむ(並)」の連用 形 から〕(1) 世間一般にごく普通であること。

  町並 みは、特に 本来平凡の漁村であった葉山町、ある 一定 のスタイル、雰囲気、そこに住む人々の「共同表現」として捉えたい。その思考に基づいて「地域社会」が成り立ってくるではないかと思う。日本に於いてその地域社会単位は他の国よりも 綿密に出来ている感じもするし、 日本文化の正体 =ルーツ=根でもある。「元町」= 地域 の「根本、中心 」であり、 住民の原点となる。英語ではこの地域社会は”community”と言い、”common” (共通の,共有の, 共同)と言う意味から由来 する。 同様な意味はcommon place,common sense、unite, unity等に見られる。

 しかし、 最近の町並みはそのような役割 を果たしていないような気がします。「並」は「個人主義」の「波」に飲み込まれ、立ち並んでいる家、特に最近出来ている物はどこの 時代やどこに由来が不明で、本来開放感や通気性を確保するための窓はどちらかと言うと要塞の???に似て来た。開け閉めは出来ないものも多いので、適切に「羽目殺し」となっている。窓が殺された。

日本の長い歴史を通じてこの国の 気候 1)に合う 建築 、そしてそれを支えてきた世界最高峰の技術を持っていた日本 の大工さんは何処風が分からない技術を要しないプラスチック素材 組み立て式の 犠牲 となってしまった。だが暴走はそこ止まらない。「開発」と名乗って町中それこそ「日本」と連想させないマンションが次々と建築される挙句の果てに葉山町らしく狭い道路は高速道路のように広げる計画が実行に移されてきた。

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右に写って新築の家の壁に幾つかの「穴」があいているが、それは私の感覚では「窓」とは言い得ない。大きく開けて、日本の気候にあった形で風通し良くする事もできないし、掃除するのも至難の業でしょう。そして人間を歓迎するような friendly な窓(右上)よりも「銃眼」のように見える。

日本の伝統的な家作り(左上)なら、この国の気候にあった、極めて機能的且つ美しい「和風スタイル」はあったのに!

  日本の文化や伝統を憧れる私にはこのような動きは残念でならない。元々日本人ではないので 本来 の 意味 でここは私の「故郷」ではないかもしれないが、所謂心の故郷であった:小さくて、謙遜な庶民的な町。この心の 拠点にあった自分 の「ルーツ=根」が失いつつある事を感じるのは私だけでしょうか。英語では自分の故郷を無くしたことはいかにも”uprooted”と言う。偶然 か。 

1)  日本 の 気候 と 文明 に関して 清水 馨八郎の「 日本 文明 の 真価 」は 参考 になる。