Category: 意見・異見

日本語で書かれている意見・異見

「秘密に取り扱って ・・・」

そう依頼することは頻繁にあるが、それは例えば特許であれば・・・ 原文が「特許公開広報」である。つまり「公開」=「皆に見せます」って言う事。既に公に公開されている。全世界の人はこの文章を見られる。いや、逆に出願者は見て欲しい。じゃないと他の特許権との問題が発生するかがわからない。それを「秘密に取り扱って ・・・」と翻訳会社から依頼されてしまうのは今風の「個人情報保護」パラノイアの延長線でしょうが、どれほど矛盾している/無意味である事が誰も気が付かないのでしょうか。

観光案内なども似たものだ。作成者も利用者もなるべく多くの人々に見て欲しいだろう。なのに「秘密に取り扱って ・・・」

その秘密妄想はもう一度考えた方が良さそうですね・・・

何ですか?

本職は鍼灸師だが、生活費は翻訳で稼いでいる。今回翻訳者の立場から2-3点を指摘したい。

 どの分野でも同じだが、専門家しか分からない用語もあり、専門家と一般ン人は違った解釈する用語もある。最悪の場合異なった文化圏の人が同一用語を全く別の形で理解する。当たり前だ。しかし、これを忘れる人は案外に多い。例えば私は自宅で夕食の時「座りましょう」と言えば当然正座の事を指している。故郷で同じ事を言えば当然椅子に腰を掛ける事を意味する。同一人物が同一言葉を使って異なった意味を表す。当たり前の事であっても、使用する言葉を越える情報がない限りに伝えたい意味を正しく理解する事が非常に難しい。

 東洋医学の分野には科学に比べて曖昧な表現が多いから、「使われる用語の意味合を煩い程明記する」事を進めしたい。東洋医学関連文章を翻訳し、良く依頼主から質問も来る:瘀血〔例〕は英語でどう表現するか。海外では西洋医学的立場からアプローチされる事が多く、本来中国語の概念を解釈する可能性は幾つもある。実はこれに関して世界的権威が盛んに議論するところだ。

 東洋医学に関して中国の思想が世界を支配している。同じ東洋医学が日本に於いて1500年にも及ぶ歴史に於いて独自の発想を生み出したのは決して少なくないが、世界に殆ど知られていない。その理由は上記の表現が曖昧さと文章力の貧弱さにもある。「ほら、あれだよ」のような発言は日本に来る前に意識するような形で聞いた事ない。そして、そう言うことを言わざるを得ないのは心を痛めるが、日本語で書かれている専門書や学術論文の表現力が乏しいものが多い(私は言える立場ではない!)。ならば翻訳される日本語の元本が非常に少ない事も驚かない。以前にも指摘した事あるが、日本は東洋医学に関して世界に向けて大事な情報発信地であるべきだと思うから、情報を伝達する「言葉」をもう一度考え直す必要あるだ。

足の事再認識する --- 裸足

腰も頸も痛くなり、動きが不自由になったり、全身の安定感が欠けている。そして肉体的の安定感のみならず精神的の安定感もいま一足りない。主に体だが、心も「ふらふら」する。場合によって患者が「めまい」=ふら付きを訴える。

案外可能性のある原因として視野に入らないのは「足」です。

文明社会は系統的に「足を馬鹿にしてしまう」と私は思う。要するに、所謂文明のある場所 = 町では殆どの領域が人工的に平らにされた:歩道、車道、広場など、建物中、乗り物の中・・・どこでも。おまけに文明人は朝から晩まで文明の象徴の一つとなるファッションに属する「靴」と言う道具を足につけるため、足底の環境は常に一定して、刺激を殆ど受けない。ファッション性の高い靴をはいって、異常な姿勢(ハイヒールなど)から生まれる異常な刺激を除けば。

ただし、人間の場合二本の脚の足底は体重を受けて上手に地面に分配する仕事と同時地面の特徴や重心の動きなどを迅速かつ正確脳に伝えるために出来ている。そのような刺激を排除するとこの刺激を処理するためにプログラムされている脳が飢えてしまう。看護に携わる人なら誰に聞いても分かるような事実は、今まで元気なお年寄りが何かの理由で暫く寝たきりになると、2-3週間さえあればまるで別人になってしまう - つまり「ぼける」。

よって、自分のあしをもう少し信じて、体を預ける事をしましょう。出来れば裸足で歩き回ると尚よいでしょう。少なくとも自宅の内に!

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足の事再認識する --- 裸足 (2)

先日足と文明社会の話題を挙げた。今回は普段余り聞かない足に関する解剖、神経学などの難しい話題にしておく。

まず、人気テレビ番組の好きな表現:「更に驚く事実を発見!」

「足」 - 余り深く考えない人が多いでしょうが、この傍役は実に複雑で高感度の「器官」だ:

足は26個の骨、33個の関節、107本の腱および19本の筋肉を含んでいる。

体の25%の骨は足に含まれている。そのバランスは全身に影響を与える。

足に125000個の汗腺ある、大半は足底にあり、毎日足から0.25lの汗がでている。

更に、脳の中で体の各場所は均等的に支配されていない。視用頻度の高いや、常用度の高い場所のため脳の神経を大量つかう。脳は体のどの部分でどれぐらいの割合で「力を入れて」いるのは次の図が示す。手足は体全体より多くの神経を使ってしまう。

しかし、文明人は自分の足はいつ何をしているかが全くと言って言いぐらいしらないようだ。

宿題:日曜生活の中で体重を踵より**少し**前のほうに移動して活動してみてください。体重の「重心」は足背の一番高い所に来るべき:土踏まず。カメラの三脚と同様:重心は脚の上ではなく、三脚の間に出来る空間に置かれると安定性が最もいい。

少し考えてみてください。

姿勢を正せ

あなたは治療者の失格だ」とよく言われる。

 その理由:

日本人の略全員が少なくとも一時的に肩凝り、頭痛や腰痛などを訴える。

これらの主訴は大部分不良な姿勢による事が一目瞭然。

私はそのことを指摘すると、患者に「責任を押し付ける」ため批判される:「疲れているから仕方ないでしょう。正しい姿勢保つ事出来たら苦労はしないよ。」

しかしそれは良くても錯覚だ。

人間を疲れさせるのは、宇宙の最強の力である「重力」だ。

地上に居る限り、絶えず(!)体を地球の中心に向かって「引力」を掛けて、立ったや座った姿勢を崩そうとしている。

そして重力は情けを知らない。

「疲れている人は可愛そうだから今日は半分の力で引っ張る。。。」なんて事はない。

意識的または無意識的でも宇宙の最も強い力に逆らおうと思ったら所詮無理だ。

「正しい姿勢」は疲れそうに見えるが、実際消耗するエネルギーは最低限となる。

疲れているこそ姿勢を良くすれば、引力による負担は最低限に抑えられる。

つまり「楽になる」。

正しい姿勢を取ると美しいー花篭を運んでいる女性の絵を見て下さい。

正しい姿勢は強い!アフリカの女性の映像を参照。重い物を楽々と運んでいるようです。多分そのまま家まで数キロメートルも歩くでしょう。日本(欧米も同様!)ではそれを出来る人は略居ないでしょうが、高齢で背骨が変形していない限り、その姿勢を絶対に取れない理由もない!

東洋に於いて仏像を見れば、正しい姿勢の見本ばかりだ。決して偶然ではないでしょう。

私は患者にその正しい姿勢と取るように指示すると結局2年前に週刊朝日の「増刊漢方2003」に掲載された記事「商売抜き、信念を貫く異色鍼灸師」のサブタイトル「患者を来させない事は私の仕事だ。」 の如くになる。

http://www.einklang.com/Kanpo2003.htm#page1 

http://www.einklang.com/Kanpo2003.htm#page2

姿勢を良くすれば多くの症状は自然と改善し、患者が来なくなる。

それで宜しい。

姿勢を良くするのは本人の努力しだい。

他人に「やってもらう」訳にはいけない。

姿勢をよくすればいい事はいっぱい: 

がんばりましょう

東洋文化の根源

もしかしたら私一人でこの事を思い込んでいるのか。丸きり見当違いかもしれない。

でも多くの人は「腹」が忘れかけてりると思う。

言うまでもないでしょうが、武術は全て「腹」で決まる。力の使い方、バランス、度胸。「腹を決めて」戦闘に挑む。

腹に頼るのは武術だけではない。お茶、書道、舞踊、太鼓、尺八等なども腹から行なわれてないと本物にはならない。当然東洋医学に於いても「腹診」によって病気を診断し、腹の健康は全身の健康の源という考えも太古から伝わって来た知恵だ。古くは松尾芭蕉の『奥の細道』に足三里にお灸を据えて長旅に備えたということが書かれています。その足三里はツボ(経穴)のスーパーマンのような存在であって、胃の経絡に属し、先ず腹を整える効き目がある。

日本語に「腹」に関する言葉は多数あるのは当然ご存知だと思うが、他の言語もどうようだ。例えば、「ガッツ(腸)ポーズ」は小腸や大腸の姿や位置を指しているではなく「力」を表現する。

日本では最高刑が昔如何にも切腹(海外ではこれを間違えて「ハラキリ」として知られている)でした。現代医学において中枢(抹消)神経系及び自律神経系の他に最近「消化管神経系」を別に認めるようになった。

「腹」は多分東洋全体の文化のあらゆる場面に於いて最終的の「決め手」となっているから、私は個人的に東洋文化の根源だと思っている。

先進ヶ国では人間が現代科学技術のお陰で随分と「頭でっかち」になる傾向あるから、精神的不安定になる人も少なくないでしょう。人間の中心(重心)部は頭にあるとその位置は高すぎる。自分の重心=中心は腹にあるべきだ。

今度悩んだり、怒ったり、怯えたりする事があれば、その問題を頭ではなく、腹で解決するような努力して見て下さい。そして、日常生活を通して精神的な安定性を図るため、赤ちゃんの時ちゃんと出来た腹式呼吸をもう一度思い出してください。

職人気質と医療費

(類似の文書は神奈川新聞に掲載された。)

    職人の技を生かして

 年々に高くなる医療費は読売新聞の少し前の記事により過去最高の29兆8000億円に達したそうです。多くの人は「仕方がないでしょう」と思っているらしいが、「医療消費者」として「買い求めるサービス」である、満足すべからず医療の品質と値段に関して個人的な意見を述べさせていただきたいと思います。

 上記の予算が膨大のものに膨れ上がっている事に関して医師、医療業者や保険会社などが余り興味ないかもしれませんが、その額を払わざるを得ない一般国民一人一人は上昇し続けている医療費が気になる筈です。私は、これは運命でもないし、不可逆の「時代の流れ」でもないと思います。この運命を変えられるのは「職人の技」だと信じています。

 大半の医療行為は「診察」と称されております。この中に含まれている「診」と言う文字は、「医者が、患者と話しをして、すみずみまで細かに病状を診る事である。」、又は「見立ての結果を教える」等の意味があります(漢和字典)。何かが詳しくを調べるためそれなりの時間と手間が必要です。しかし、現在医療現場で常識のように行われている「2分診察」果たして上記の意味で患者を診る事になるでしょう。これほど短時間で良質の診察を施す事がよく言えば大変難しいでしょう。従って、このような「2分診察」は必然的品質の悪い品/サービスです。

 例を上げましょう。以前往診の際患者が「腰痛や坐骨神経痛」を訴えました。しかし、診察で即に腹部にある最低拳大の腫瘍に気付きました。患者に現在の「神経痛」の原因は腰ではなく、腹部にあり、悪性の可能性もある腫瘍だと告げ、検査を薦めました。検査結果は後程思った通りの「癌」を判明しました。

 この患者は、私の往診の一ヶ月前に心臓発作(狭心症)で入院し、腰下肢痛で整形外科でも診てもらったそうです。ここは疑問です。少なくとも二人の医者に診て貰ったにも拘らず、素人が触っても分かる程大きい腹部腫瘍がどうして見落とす事が出来たでしょうか。答えは残念ながら簡単です。心臓発作は胸の病気と腰痛は腰の病気、いずれの場合西洋医学の職人がお腹を診る必要がないと思われたらしい。それでもこの患者の入院治療などに高額の医療費が請求されたはずです。

 類似の例は沢山あげられます。目で見れば、或いは触診や聴診すれば分かる病態に於いて、先ず高額の検査が注文されます。視診、触診、聴診などは(少なくとも私治療院)無料(又は極めて低い料金)で出来るのに検査を注文する行為は明らかに「金儲け作戦」に違いありません。現在の保健医療の大部分が検査に使われると考えると上記の行為/態度は膨大のお金の無駄遣いされることを意味します。年々に高くなり、新たのもの(例えば「介護保険」)が追加される高額の保険料を払わざるを得ない国民にとって決して納得すべき事情ではと私は信じています。その費用が患者を真面目に(職人らしく時間を掛けて)診察する事だけで大幅に削減できる事が一目瞭然となるような気がします。患者の話に耳を傾き、旧式の「診察」を行われていれば、現在検査に使われる金額の無視できないほどの部分が不要になるはずです。

 外国の諸調査によって通常の治療に例えば鍼治療を加える事によって、病態が改善するまでの時間が大幅に短縮され、同時に治療費も節約される事が判明しました。保険会社が一人の患者当たりに支払われる保険金が大幅に減りますので、現在問題とされる「財政不足」が改善される可能性が高い事が小学生でも検討できそうです。

 私も現在既に高い健康保険料を払っているのに、最近更に介護保険料が加算された事が気に入りません。そして現状を改革しなければ、数年後恐らく雪崩のように大きくなる医療費をカバーするため次の「特殊保険料」が考案されるに違いありませんので、一般庶民の負担を更に増すでしょう。  よって、私は鍼灸などの代替医学的、伝統医学的な(医療職人的)アップローチが現代医学の変わりとしてではなく、効率のよいとコストが比較的掛からない国を救う鍵の一つを握っている事を確信しています。

鍼灸 - 美容

ご存じでしたか…
美容も鍼灸治療の一つの応用です。
当然のことですが、体が健康でなければ美しくにもなれません。
そこで最近良く耳にする「半健康状態」のこと少々触れたいと思います。


 先ず、頭に浮かんでくることは肌のことでしょう。肌は特に女性にとって綺麗であった方がよろしい。しかし、肌は体のただの皮ではありません。漢方医学においてこの肌は二つのもので出来ている:一つは皮膚です。皮膚は目で見える、最も外側にある部分で肺と大腸の働きを反映します。もう一つはいわゆる「肌」です。この部分は目に見えない、皮膚の表面の下にある、胃と脾臓の働きを反映します。
 もし、肌に問題があれば、ただ外側から何かを塗り付けるだけでは多分十分の効果は期待が出来ません。やはり中から調子を整えて、改善しないといけません。
 類似の問題は例えば乳房の形状です。調節に大金を使っている方もいらっしゃるでしょうが、これもやはり内部から改善しないと長期に満足すべき効果が見られませんでしょう。乳房は東洋医学において上記の肌と同じ胃と脾臓の働きを反映します。その他に、姿勢は大きな影響があります。
上記のいずれの臓器の働きは幾分自分で指圧等の方法によって(可能であればお灸で)調節することが出来きます。勿論、このような調節は本格的な鍼灸治療で尚良いでしょう。
ご相談は無料で承ります。

不治の病

近代、鍼灸が肩こりや腰痛をやわらげるための治療法として認識されているようですが、鍼灸および漢方と言う民間療法は「蘭方医学」が導入される前に唯一の治療法でした。従って、鍼灸治療もほぼ全ての病気に使われました。優れている内科や外科治療、あるいは抗生物質や他の薬がある現在に鍼灸治療に潜在する力が忘れてしまいました。
しかし、残念ながら今も現代医学(西洋医学)は全ての問題を解決することが出来ない。輝かしい科学の進歩にもかかわらずいわゆる「難病」と「不治の病」が以前と同様に存続する。
 これらの病気のためもう既にあらゆる治療法を試されたが、未だ希望を持たせるものは乏しい。この時最後の助けを求めながら鍼灸治療を試してみたい方がときどき居ます。

 果たして、鍼灸治療がこれらの「難病」と「不治の病」を治せることは疑問ですが、試して見る価値は十分ある。
 研究というものは小さな治療院では普通不可能と考えて間違ない。しかし、私個人的に鍼の力はどこまで伸ばせることをどうしても知りたいし、同時に世間にも見せたいです。私の考えでは不治の病を治せることが出来なくても、患者の苦痛を和らげ、症状を改善させることが十分可能でしょう。

元気

元気は文字通り「元の気」。この関連で生命の源。
単なる挨拶→ 「元気ですか」ではない。
元気は東洋医学において大きく分けてしまえば「先天性の元気」と「後天性の元気」がある。
前者は生まれる前に親から頂く生命力と考えて良い。それは生きている間少しずつ使われて、全部使い切った段階で死亡する。この気の種類は後から付け足し出来ないものだ。
それに対して後者は生きている間常に補充しなければならない。「補充」と言うのは飲食や呼吸によって身になる材料及び燃料(食べ物)、その材料を運搬/運営出来る媒体(水)と生体を動かすエネルギー元(空気、「気」そのもの及び燃料を燃やすに使われる酸素)を指している。
後天性の元気は生命活動に不可欠なものですので、出来れば「いい品」を使うのは賢明でしょう。
そして「先天性の元気」と「後天性の元気」を自分の意志で操作する技術を少々身に付けると多いに役に立つに違いない!

「気」と言うものは真に不思議なもので、その実態についてとても「簡単」には語れない。しかし、東洋医学を営む上に、どうしても一言は言わざるを得ない。
気 - その存在と運営、操作は東洋医学の真髄だとは過言ではないでしょう。気は人間の体の中(それぞれの臓器、経絡、血液など)と外(外気、天気、環境の変化、他の生物など)にも充満していると考えてもいいでしょう。そして常に変化し続けていて、決して「静止」はしない。
気の流れは患者-治療者の関係も、治療効果にも決定的な影響を与える。

最近何でも「科学的根拠」を見出していかない限りその存在を認めないと言う時代の流れだが、現時点では気の「科学的根拠」はまだ納得の出来る形で示されていない。そのため気に巡る議論は永遠続いている。


歴史的及び地球規模的(グローバル)を見てみると、全ての時代に、全ての文化圏には類似の概念がある。単なる偶然?
「科学的根拠」はまだ特定できないから「気が存在しない」結論に飛びつくのはいかにも「非科学的」だ。その正体を測定する装置がない、捉える概念が定義されていないだけかもしれない。つい最近(2013年の春)に全世界に揺るがす出来事があった:「ヒッグス粒子が発見された」。聞きなれていない言葉だろうし、一般庶民には全く関係ない事でしょうが、例のヒッグス粒子の存在は長年に「推定」された。その粒子が存在しないと現在の物理学(科学!)の基礎が完全に崩れてしまう=成り立たない。なのに今年までその粒子の存在を証明する証拠の影も形もなかった。

もしかして「気」の正体は zero-point energy (http://en.wikipedia.org/wiki/Zero-point_energy) にあるか・・・


今まで証明出来なかったから存在しなかった訳ではないだ!同じく:電気、磁場、微生物(感染症)などなどにも言える。黴菌の存在を証明出来なかったからいなかった訳ではない。感染症が世界中絶えず無数の人の命を奪う。それは幻しいではない。
気は恐らく同じものだろう。いつか技術の進歩で正体を突き止めて、測定する事ができるようになるだろう。その時まで少なくとも東洋医学においてこの不思議な力を操作するのは我々「鍼灸職人」だ。