Category: 社会

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医療業務のあり方

同業者の悪口は言いたくありませんが、複数の患者から同じ診療所に関するかなり妙な話を聞かされたため、名前などを明かさない形で報告させて頂きます。残念ながらそのような状態は稀ではないようです。

* 例の診療所から往診してもらった当院に長年来院した高齢な女性がいました。話を聞いていると、保険を使って週2回ほど往診してもらい、それぞれの治療は15分程度で終わり、左程効果も感じなかったようです。しかし、半年に一度国から保険料はどれほど使ったかを報告するような葉書で記載されていた金額から逆算すると、一度の治療費は凡そ4300円でありました。鍼灸治療に保険を使うと一度の治療費は約1600円ほどです。参考まで。

* 四十代のビジネスマンが初めてその診療所に受診した際、先ず保険会社に提出する書類にサインして/判子をおして下さいと言われた。ビジネスマンですので直ぐ怪しいと思ったのは、書類に金額が書かれていませんでした。診療所で後に記入するそうです。ビジネスマンが商品=治療を「購入」させる際、先ず何より先に価格をはっきりしなければならないのは常識でしょう。通常の=真面目な仕事にありえない状態と思ったらしく、矢張り二度といきませんでした。

* 更に別の高齢女性が受診したが、相手(=診療所)の都合に合わせて、今度何日何時に来なさいの用に、その女性の都合や意向に合わないのに「強制的」に来させた。無論診療所は患者に対して「強制措置を施す」権利全くありませんが、年寄りの方なら何かの「先生」に「来なさい」と言われたら、従わなければならないような教育を受けていますから、仕方なく何度か受診しました。

このような業務は、お言葉ですが、金儲け目的しかないと思わざるを得ません。世間に疎い私には今風のビジネスは全く分かりませんが、どうむ賛同できないし、医学倫理にも「治療者気質」にも反しています。そのような診療所は世の中にあるのはとても残念です。

詐欺のトライ - 警察の対応

先日電話が入り、以前住んでいた家の害虫駆除契約の残高まだあるから、今の家を点検させてください。最初から非常に怪しいが、一応家まで来る事になった。

約束の日の前に警察署にいって、恐らく詐欺を試みている人が来ると相談し、警察官そこで立ち会ってくれるかどうかを尋ねた。「そう言う事はしません」との回答だった。

例の悪質業者が家に来た時、例の契約書を見せて下さいと要求した際、当然なかった。「言われた通りに動きますから、上の者に聞いてくる」と言いながら帰った。当然二度と連絡がない。

しかし、同じ手口でこの地域で他の老人(残念ながら私達もそれなりの老人になった)に家の点検を持ちかけて詐欺するだろう。老人は一応「弱者」だと一般的に認識されている。弱いものを標的し、意図的騙してしまう者は許しがたい「人でなし」と思う。「現行犯」ではないにしてもその場で警察官あの悪徳業者引き留めて、少なくとも身分を確認してくれたら、今頃老人の間広がってくる被害を幾分未然に防げるのではないかと思う。

遠方からの来院

以前からも東京や千葉の様な遠方から来院されたことある。十数年前に神奈川新聞で紹介された時取り敢えず神奈川県全域から来た。

昨年テレビに出た後で更に、群馬、静岡、長野。。。最も遠い所は愛知県だった。伊豆大島からも来た。

しかし、今日は他の用事の次いでではなく、専ら治療のためわざわざ飛行機で九州から来院した感謝がいた!今までの最高記録。

残念ながら恐らく治らない病気に患っていると思う。治らなかったらどうなるだろう。損害賠償?なにしろ、去年の例のテレビ番組で「できるならば一回の治療で患者を治したい」と言ったものだ。

社会人の常識(1)

いつも不思議に思う。いい年をしている社会人はまるで自分以外だれも存在しないように振る舞う。自分はそのような行為によって邪魔されたり/被害にあったら恐らく怒るだろう。ではなんで周りの人、他人の事を考えないのか。

無論全部ではないが、もうすでに数十年間社会が「デジタルの世界」に沈没し続けているから、人はもはや他人や外界に「目を向ける」必要がなくなり、いつも一人で独自の世界(バーチャル・リアリティ)にいる。違うかもしれないが、私はそのような印象をうけている。電車や町を見回すと、人の顔を見るより、携帯を凝視する人の方がアット的に多い。

これでは車が入れない
駐車場の入り口に斜め

治療院の例。駐車場一台分しかない。治療室にベッド2台ある。従って、来院している人以外にもう一人がいるか/これから来るかもしれない。それなのに自転車(→写真)あるいは原付バイク(→写真)で来院してくる人は自分の自転車/バイクが他人/車が入れないように置く。

それは少々お粗末ではないかと思う。それとも・・・私はただ煩いのでしょうか。

これで治療院の出入り口も半分塞がってしまい、やはり車が入れない

Translator as “Bookfinder”

In the not so distant past the military used scouts, sometimes also called “pathfinders” (Merriam Webster: path.find.er n (1840): one that discovers a way; esp: one that explores untraversed regions to mark out a new route — path.find.ing n or adj.), to find their way through unknown territory. Literally, these were people that could find a path not visible to anybody else. During a recent conference on translation, a certain question appeared in several different sessions: what actually is the job and/or function of a translator?

The answer to this question appears on first sight to be simple and obvious, but many of the attending translators and agencies presented widely varying definitions and concepts. This motivated me to write this little article and express an idea, I had for quite a while now. I.e., translators should also (or maybe even predominantly) be “bookfinders” in analogy to the above mentioned pathfinders. Below I will try to explain why.

I have been a translator for about 30 years and during this time spent nearly 100% of my working time with activities, involving the rendition of a certain meaning expressed in one language into another. Sometimes, in particular when the source text is of rather poor quality and/or ambiguous, this also involves a more less significant portion of text interpretation and re-writing. Nevertheless, the basic idea is always the same: change A into B. Very few, if any, people I happened to work with over the years have ever questioned or even challenged this view. This is simply considered to be the job and function of a translator.

Yet, if you are a translator for any specialized field, have a professional interest in extending your horizons, conduct a little research in your own or maybe even other fields of expertise, then you will certainly do some reading.

This puts the translator in a unique position. He/she is not only capable of professionally handling and evaluating two or more languages, but will be reading reference books on certain topics in these languages. Sometimes there are equivalents or even translations of certain valuable references, but most often not. Under these circumstances the translator can evaluate several books that might be worth translating from both linguistic and technical points of view.

I believe that a look at the currently available selection of translated books shows clearly, that the choices are definitely not always “professional”. They are made by publishers based on information and recommendations of sometimes questionable origin and mainly commercial considerations. This provides the general population with a selection of translated books influenced by a possibly biased and – naturally – profit orientated choice made by publishers. But this could also mean, that the average person has access only to a rather distorted view of the world.

Today, the internet offers access to the so-called information highway carrying more information with an incredibly short turnover time than anybody could ever handle. Yet, fast access to a terrifying amount of information could also block the view for the more distinct, practical, comprehensive and interesting information a book can provide. After all, reading should also be fun.

While access to the information highway may often prove to be very helpful, who would like to live in a house with the front door opening right onto the highway? Personally, I prefer the quiet small back roads. This is, where books come in. It takes much longer to publish a book than to publish and update a web site. Naturally, books are always somewhat “behind their time”, but that does not reduce their value.

For example, I am a native German living in Japan. I know of literally “uncountable” translations of German literature, science books etc. available in Japanese bookstores. Yet, whenever I visit Germany and wander through large bookstores, I can find at best a handful of Japanese books translated into German. A very illustrative little episode happened, when I visited the annual Tokyo International Book Fair a few years ago. There I asked a German publisher if they might be interested in the publication of translated Japanese books. The representative at that booth said: “No, why should we? Publisher XXX already has published two books.” This is hardly representative for a nation that publishes around ten thousand new books every year!

Thus, in spite of the omnipresent information highway and Japan being a superpower with a major impact on the world economy, intellectually it still remains largely uncharted territory (a sort of a black hole) for the people of other countries, because there is so little tangible (books that you can take in the hand in contrast to virtual material on the internet) information about it available. I firmly believe that the same situation also applies to quite a number of other countries.

Now, here is a field, in which translators could offer a real contribution to international understanding: selecting and recommending books worth of translation. The translator who recommends certain books might even do the entire translation. In many cases this would be not only be advantageous for the translator, but also the translation itself and thus the reader.

ご挨拶

私はきっと歳をとり過ぎたでしょう。
日本の良さの一つはご挨拶な気もするし、昔勉強しながら回りの先輩の先生方にもそのように仕込まれました。
以前にも触れたが、そういう先輩に「開業の際地域の同業者のご挨拶して来い」と言われました。
私は開業した際その通りご挨拶回りに行きました。
開業してから21年経っているが、その間ご挨拶回りに来た人はいません。

先日こちらの技術で対応出来ないため同(類)業者に患者を紹介し、治療を依頼しました。
「普通に」(医療者同士の間の礼儀)考えてしまえば、診察した後で、それなりの挨拶/報告があるのは常識な筈です。

・・・何もありませんでした。
同(類)業者だけではなく、整形外科医院もそういう事が何度もありました。

日本の良さを段々と廃止されるのは何とも言えない寂しい。
日本の良さを廃止して「他のもの」に置き換えているでしょうか。
その「他のもの」は何でしょうか。それなりの価値はあるでしょうか・・・・・

お客さんの裏切りか

別に「一位」になりたい訳ではありません。
しかし、「口コミサイト」ではお客さんの声次第に登録してあるお店のランキングが決まると信じていました。
実際は異なるようです。
私の所 PV:2556(今月ちょっと特別)
一位の所 PV:105
私の所 口コミ:69 (その時)
一位の所 口コミ:5
両方「無料プラン」
相互リンク: 私の所のみ
評価の点数もお客さんの意見を表すよりも、携帯電話の小細工に左右されるそうです。
(以前そのような回答頂きました。)

数多くのお客さんが折角貴重な意見を寄せたのに、それが「正しく」反映されないのはそのお客さんを裏切り行為ではないでしょうか。
お客さんはこのような事実を知っていれば、そう思うでしょうか。

低所得者基金

低所得者のため

鍼灸治療(費)は現在(少なくとも都会の中とその近辺)8000-10000円程が当たり前の様です。それでは必然的富裕層の方しか治療受けられません。
私はそれをとても賛同出来ません。

当院では寛大な方がいて、意図的治療費より多く払って下さりました(既に2回ほど)。そのお金を「着服」する事も出来るかもしれないが、私と同じような低所得者の治療費を幾分軽減するために当てます。
理想論では本当に治療が必要な(低所得の)方に治療を無料で提供出来たら嬉しいが、残念ながら世の中は中々理想論通りにはならないが、希望をもって続けたい。

ダイエット (減量)

翻訳の仕事関係でいつも深夜まで働いている(食事後暫く休憩を入れて)。
食事の際ビールやお酒少々でも飲めば、その場で眠たくなり、寝てしまう事が多い。
よって、深夜まで仕事して、「今日はこの辺まで・・・」と思ったら、お酒少々飲みながらぼーとしてテレビを見てから寝るのは習慣になった。お酒一杯は未だ許されるかもしれないが、飲みながら美味しいおつまみがないかを思いながら冷蔵庫を開けてしまうのはさいなんの始まり。

お陰様で2009年の7月に体重が三桁(100kg)まで増えた。行けないと思いながら「減量」する決心した。結局「先生」(前に生きる=模範)として患者に手本を示す使命があるはずなのに、自分は何もしない事は先生の失格にもなり得るでしょう。

そこで食べる量全体を少し減らし、深夜の酒も減らし(出来ればおつまみもなし)、そして再び好きな自転車を乗る事にした。今頃略毎日約一時間一所懸命に走っている。定番のコースは例えば治療院から江ノ島まで往復、それとも治療院からでも自宅からでも湘南国際村の山を越えるコース。

現時点(2010/11月)では体重は凡そ23 kg減った
「やれば出来るな」と自分でも思った。
この春に「第二ステージ」を挑戦してみたい:更に5-6kgを減らす。
成功すればやっと「正常の体重」領域に入る予定。

私のブログにもあり、そして読売新聞にも掲載されたことある。

「経済効果」:昨年四月から計三回通訳の仕事に出かけた。四月の段階は結構太ったので、技とお出かけ用の豪華の服をかったが、今現在それを着ればピエロのように見える。逆に、もう十年も前から刷けなかったズボンや切れなかったシャツまた入るようになった。片方は大損したと同時に儲けた所もあった。どちらがいいかが良く分からない。

もう少し頑張る。

これは長男の成人式:6年前。その後またかなり太った。                                                                2010年。三男の成人式の時。

2009年の4月にとく大サイズの専門店で購入したズボン。仕事(お出掛け)ように買った。買った当初にはちゃんとフィットしたんですが、約10ヶ月経って凡そ21kg減量して、復周りも20cm余り縮小してきた。

高いズボンは合わなくなってきたが、その代わり20年間刷けなかったズボン今普通に使っている・・・

足の事再認識する --- 裸足

腰も頸も痛くなり、動きが不自由になったり、全身の安定感が欠けている。そして肉体的の安定感のみならず精神的の安定感もいま一足りない。主に体だが、心も「ふらふら」する。場合によって患者が「めまい」=ふら付きを訴える。

案外可能性のある原因として視野に入らないのは「足」です。

文明社会は系統的に「足を馬鹿にしてしまう」と私は思う。要するに、所謂文明のある場所 = 町では殆どの領域が人工的に平らにされた:歩道、車道、広場など、建物中、乗り物の中・・・どこでも。おまけに文明人は朝から晩まで文明の象徴の一つとなるファッションに属する「靴」と言う道具を足につけるため、足底の環境は常に一定して、刺激を殆ど受けない。ファッション性の高い靴をはいって、異常な姿勢(ハイヒールなど)から生まれる異常な刺激を除けば。

ただし、人間の場合二本の脚の足底は体重を受けて上手に地面に分配する仕事と同時地面の特徴や重心の動きなどを迅速かつ正確脳に伝えるために出来ている。そのような刺激を排除するとこの刺激を処理するためにプログラムされている脳が飢えてしまう。看護に携わる人なら誰に聞いても分かるような事実は、今まで元気なお年寄りが何かの理由で暫く寝たきりになると、2-3週間さえあればまるで別人になってしまう - つまり「ぼける」。

よって、自分のあしをもう少し信じて、体を預ける事をしましょう。出来れば裸足で歩き回ると尚よいでしょう。少なくとも自宅の内に!

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足の事再認識する --- 裸足 (2)

先日足と文明社会の話題を挙げた。今回は普段余り聞かない足に関する解剖、神経学などの難しい話題にしておく。

まず、人気テレビ番組の好きな表現:「更に驚く事実を発見!」

「足」 - 余り深く考えない人が多いでしょうが、この傍役は実に複雑で高感度の「器官」だ:

足は26個の骨、33個の関節、107本の腱および19本の筋肉を含んでいる。

体の25%の骨は足に含まれている。そのバランスは全身に影響を与える。

足に125000個の汗腺ある、大半は足底にあり、毎日足から0.25lの汗がでている。

更に、脳の中で体の各場所は均等的に支配されていない。視用頻度の高いや、常用度の高い場所のため脳の神経を大量つかう。脳は体のどの部分でどれぐらいの割合で「力を入れて」いるのは次の図が示す。手足は体全体より多くの神経を使ってしまう。

しかし、文明人は自分の足はいつ何をしているかが全くと言って言いぐらいしらないようだ。

宿題:日曜生活の中で体重を踵より**少し**前のほうに移動して活動してみてください。体重の「重心」は足背の一番高い所に来るべき:土踏まず。カメラの三脚と同様:重心は脚の上ではなく、三脚の間に出来る空間に置かれると安定性が最もいい。

少し考えてみてください。