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東洋医学全般

感染症

「感染症」は今もっぱら「新型コロナウイルス」と連想されるものです。しかし、感染症は地球に生命体が発生して以来からあります。従って、歴史を通してすべての文化圏や時代は常に感染症との闘いでした。
 当然今のような合成新薬やワクチンはありませんでした。対象方法はいわゆる伝統療法でありました。その方法は必ずしも有効ではなかったため、今まで「医者より養生」の概念が重視されました。
 東洋医学の古典の一つ=「傷寒論」(2000年ほど前の書物)は正にあらゆる感染症の治療=漢方薬を詳細に述べています。しかし、これは既に感染症になって、どのような薬物治療をすればよいかの話です。
魔法の解決策ではないが、私は鍼灸師としてちゃんとしたお灸を何より先に勧める。しかし、「今風の人々」は「お灸?????」とまず嫌がるでしょう。



 お灸は誰でも、何処でも他の治療より安く出来るものだ。一度考える価値は十分あるだと思う。
 旧式のお灸では皮膚に小さな火傷を作ります。火傷のため自分の細胞が幾つか壊れ、出てしまう細胞の内容が自分の免疫機能で「異物」として認識されているから、免疫機能が活性化され、その異物を処理するようになります。
もうおよそ100年前にこのようなお灸は結核に対してどのようか効果があるのか原志免太郎先生が研究し、その科学的根拠を究明した。つまり、お灸は免疫力を増加することに関する科学的論文は既に一世紀まえからある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%BF%97%E5%85%8D%E5%A4%AA%E9%83%8E

この原先生の研究に上記の研究に基づいて電気も水も通っていないアフリカで***簡単に出来るお灸***を進めているNPOプロジェクトを設立し(日本のレガシィを伝えるのはイギリス人です!)、現地でお灸で結核の治療を進めている:
https://www.moxafrica.org/

私は取り敢えず正体不明のワクチンや薬よりお灸を選択する。

何ですか?

本職は鍼灸師だが、生活費は翻訳で稼いでいる。今回翻訳者の立場から2-3点を指摘したい。

 どの分野でも同じだが、専門家しか分からない用語もあり、専門家と一般ン人は違った解釈する用語もある。最悪の場合異なった文化圏の人が同一用語を全く別の形で理解する。当たり前だ。しかし、これを忘れる人は案外に多い。例えば私は自宅で夕食の時「座りましょう」と言えば当然正座の事を指している。故郷で同じ事を言えば当然椅子に腰を掛ける事を意味する。同一人物が同一言葉を使って異なった意味を表す。当たり前の事であっても、使用する言葉を越える情報がない限りに伝えたい意味を正しく理解する事が非常に難しい。

 東洋医学の分野には科学に比べて曖昧な表現が多いから、「使われる用語の意味合を煩い程明記する」事を進めしたい。東洋医学関連文章を翻訳し、良く依頼主から質問も来る:瘀血〔例〕は英語でどう表現するか。海外では西洋医学的立場からアプローチされる事が多く、本来中国語の概念を解釈する可能性は幾つもある。実はこれに関して世界的権威が盛んに議論するところだ。

 東洋医学に関して中国の思想が世界を支配している。同じ東洋医学が日本に於いて1500年にも及ぶ歴史に於いて独自の発想を生み出したのは決して少なくないが、世界に殆ど知られていない。その理由は上記の表現が曖昧さと文章力の貧弱さにもある。「ほら、あれだよ」のような発言は日本に来る前に意識するような形で聞いた事ない。そして、そう言うことを言わざるを得ないのは心を痛めるが、日本語で書かれている専門書や学術論文の表現力が乏しいものが多い(私は言える立場ではない!)。ならば翻訳される日本語の元本が非常に少ない事も驚かない。以前にも指摘した事あるが、日本は東洋医学に関して世界に向けて大事な情報発信地であるべきだと思うから、情報を伝達する「言葉」をもう一度考え直す必要あるだ。

東洋文化の根源

もしかしたら私一人でこの事を思い込んでいるのか。丸きり見当違いかもしれない。

でも多くの人は「腹」が忘れかけてりると思う。

言うまでもないでしょうが、武術は全て「腹」で決まる。力の使い方、バランス、度胸。「腹を決めて」戦闘に挑む。

腹に頼るのは武術だけではない。お茶、書道、舞踊、太鼓、尺八等なども腹から行なわれてないと本物にはならない。当然東洋医学に於いても「腹診」によって病気を診断し、腹の健康は全身の健康の源という考えも太古から伝わって来た知恵だ。古くは松尾芭蕉の『奥の細道』に足三里にお灸を据えて長旅に備えたということが書かれています。その足三里はツボ(経穴)のスーパーマンのような存在であって、胃の経絡に属し、先ず腹を整える効き目がある。

日本語に「腹」に関する言葉は多数あるのは当然ご存知だと思うが、他の言語もどうようだ。例えば、「ガッツ(腸)ポーズ」は小腸や大腸の姿や位置を指しているではなく「力」を表現する。

日本では最高刑が昔如何にも切腹(海外ではこれを間違えて「ハラキリ」として知られている)でした。現代医学において中枢(抹消)神経系及び自律神経系の他に最近「消化管神経系」を別に認めるようになった。

「腹」は多分東洋全体の文化のあらゆる場面に於いて最終的の「決め手」となっているから、私は個人的に東洋文化の根源だと思っている。

先進ヶ国では人間が現代科学技術のお陰で随分と「頭でっかち」になる傾向あるから、精神的不安定になる人も少なくないでしょう。人間の中心(重心)部は頭にあるとその位置は高すぎる。自分の重心=中心は腹にあるべきだ。

今度悩んだり、怒ったり、怯えたりする事があれば、その問題を頭ではなく、腹で解決するような努力して見て下さい。そして、日常生活を通して精神的な安定性を図るため、赤ちゃんの時ちゃんと出来た腹式呼吸をもう一度思い出してください。

元気

元気は文字通り「元の気」。この関連で生命の源。
単なる挨拶→ 「元気ですか」ではない。
元気は東洋医学において大きく分けてしまえば「先天性の元気」と「後天性の元気」がある。
前者は生まれる前に親から頂く生命力と考えて良い。それは生きている間少しずつ使われて、全部使い切った段階で死亡する。この気の種類は後から付け足し出来ないものだ。
それに対して後者は生きている間常に補充しなければならない。「補充」と言うのは飲食や呼吸によって身になる材料及び燃料(食べ物)、その材料を運搬/運営出来る媒体(水)と生体を動かすエネルギー元(空気、「気」そのもの及び燃料を燃やすに使われる酸素)を指している。
後天性の元気は生命活動に不可欠なものですので、出来れば「いい品」を使うのは賢明でしょう。
そして「先天性の元気」と「後天性の元気」を自分の意志で操作する技術を少々身に付けると多いに役に立つに違いない!

「気」と言うものは真に不思議なもので、その実態についてとても「簡単」には語れない。しかし、東洋医学を営む上に、どうしても一言は言わざるを得ない。
気 - その存在と運営、操作は東洋医学の真髄だとは過言ではないでしょう。気は人間の体の中(それぞれの臓器、経絡、血液など)と外(外気、天気、環境の変化、他の生物など)にも充満していると考えてもいいでしょう。そして常に変化し続けていて、決して「静止」はしない。
気の流れは患者-治療者の関係も、治療効果にも決定的な影響を与える。

最近何でも「科学的根拠」を見出していかない限りその存在を認めないと言う時代の流れだが、現時点では気の「科学的根拠」はまだ納得の出来る形で示されていない。そのため気に巡る議論は永遠続いている。


歴史的及び地球規模的(グローバル)を見てみると、全ての時代に、全ての文化圏には類似の概念がある。単なる偶然?
「科学的根拠」はまだ特定できないから「気が存在しない」結論に飛びつくのはいかにも「非科学的」だ。その正体を測定する装置がない、捉える概念が定義されていないだけかもしれない。つい最近(2013年の春)に全世界に揺るがす出来事があった:「ヒッグス粒子が発見された」。聞きなれていない言葉だろうし、一般庶民には全く関係ない事でしょうが、例のヒッグス粒子の存在は長年に「推定」された。その粒子が存在しないと現在の物理学(科学!)の基礎が完全に崩れてしまう=成り立たない。なのに今年までその粒子の存在を証明する証拠の影も形もなかった。

もしかして「気」の正体は zero-point energy (http://en.wikipedia.org/wiki/Zero-point_energy) にあるか・・・


今まで証明出来なかったから存在しなかった訳ではないだ!同じく:電気、磁場、微生物(感染症)などなどにも言える。黴菌の存在を証明出来なかったからいなかった訳ではない。感染症が世界中絶えず無数の人の命を奪う。それは幻しいではない。
気は恐らく同じものだろう。いつか技術の進歩で正体を突き止めて、測定する事ができるようになるだろう。その時まで少なくとも東洋医学においてこの不思議な力を操作するのは我々「鍼灸職人」だ。

病気

「病は気から」と言う慣用語は誰でもしている。あらゆるの病は多かれ少なかれ「気」によるか「気」に影響を受けるのは東洋医学で考えている。
したがって、来院する患者はその「病の気 = 病気」を持って、出来る限り早くなくしたい。その気持ちは良く分かるつもりだ。では具体的には・・・
患者が自分の病の気を治療者に「取ってもらいたい」、言い換えれば治療者に送り込み、その代わり治療者から「元の気 = 元気」、つまり健康である能力を受けたい。
治療者はこの「病の気をなくして、元の気を取り戻す」過程において単なる仲介役(理想的に)ですが、やはり「気をつけない」と病の気の渦に巻き込まれる。つまり、治療者は病の気のゴミ箱のようなものだ。そして、どのゴミ箱は何時かいっぱいになる。治療者は病の気で満杯になってしまえば、治療も出来なくなるし、自分も病気に成る。
 自然界から新鮮な「気」を取り入れて「充電」しないといけない。私はそのため定期的海に行って、生命の母に手を翳していらない病の気を放出してから新鮮な気を頂戴し、海(空、大地など)に感謝する。