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トーマス鍼灸院の資料館

トーマス鍼灸院の古い資料館 から

この資料館はちょっとした「お化け屋敷」のようだ。ここに集めた古い記事は殆ど今の新しいHPに「相応しくない」と言われたものばかりですが、私の考え方、私の言葉で表現している。相応しくないかもしれないが、過去にこちらの意思表現したものですので、捨てるのは勿体無い。未だ古い物を全部ここに掲載していない。時間があればその内に追加します。

Relaxation

これは大変頻繁に使われる言葉だ。映画で「リラクスしろ」も良く出るし、最近の「ヒーリング」ブーム関連で「リラクゼーション」が酷使される語句だ。

それはどう言うことか少々考えたい。

語源 ラテン語 relaxare より. (re-再び+laxare ゆるめる、例えば英語では 「laxative」 は下剤の事を指している). 要するに意味は …をゆるめる, 和らげる(他有り)。

つまり、本来は「lax=ゆるい」であったものは何かの加減で「緊張」してしまった。「re-再び+laxare ゆるめ」ない限り肩凝り、頭痛、不安感、目の疲れ等など多彩な症状がでる。

図1    人形をもって体の神経支配を立体的に表現する人形(humunculus)

人体の外側にある筋肉、つまり骨格筋は例外なく「随意筋肉」と呼ばれ、理論的頭の命令通りに働くはずだ。ならば「リラクスしろうよ」と頭で命令すれば体の緊張が緩むはず。肩凝りなんて問題どこにもない!

しかし、そう上手くはいかない。動物や人間の赤ちゃんは簡単にリラクスは出来るが、通常の人は一苦労せざるを得ない。動物の場合「活動・狩」などを行わない限りのんびりと構えている。人間の赤ちゃんは安心した状態にあると自分の体を完全他の人に任せてリラクスする事ができる。赤ちゃんを抱いたままで寝てしまうと突然ぐっと重くなることがある。その際全身の筋肉の緊張が一気に緩む。

詳細の説明は非常に長くなるから少々省くが、上記の「一苦労」の一つの原因は現代社会がもたらしている「頭でっかち」であり、要するに頭ばかりを使って、体を使ったり,感じたりしない(病気以外)事にあるでしょう。

肩凝り等で悩んでいる人がいるとすれば、本来自分の意志で肩の筋肉をリラックスさせればよい。理論的に可能なことだが、どう言う訳か出来ない。なら何が出来るのか。

 図2    脳の断面図で脳内の(運動)神経領域を表すイラスト

こちらも詳細のことを省かざるを得ないだが、人間の「神経支配」を少々考えてみると閃かれるかもしれない。知覚神経(ものを感じる神経)及び運動神経は両方とも均等的体中に「配線」されている訳ではない。顔、特に唇と舌や手の先では他のところに比べて非常に密集している(イラスト1と2はそれを表現している)。そう言うわけで赤ちゃんは先ず何でも口に入れて、そしてもう少し成長したら、何でも「手にとって把握(=理解=ドイツ語では“begreifen“)使用としている。唇や手から大変多くの情報が脳へ伝わる半面に、この部分の制御(運動機能)も極めて綿密だ。

肩を選択的に「リラックス」出来ないかもしれないが、細いに制御できる手指を意図的にリラクスする事は少々の練習で可能になる。そしてその感覚を覚えていけば力を抜く範囲を段段と広げて肩や他の部分まで波及させることは決して夢ではない。リラクゼーションも訓練が必要だ。

日頃ちょっとした時間あれば、一息をして、楽に座るようにしておいて、頭の中になるべく大きいものを描いて、そして自分の指に(拳骨という関節より先)に集中して貰いたい。指一本ずつ反対の手で持ち上げて、力を抜いて、指を重力に任せて下落させる。全ての指に繰り返す。目的は指を上げた後離したとき=解放したリラクゼーションだ。指は下ろすよりも指が「落ちる」感覚を覚えてもらいたい。患者を診て手が「緊張している」人は実に多い。このような患者の殆どは手が緊張しているだけではなく,全身に緊張しているひとがおい。たんなる肉体的緊張で止まらず、精神的の「緊張」とそれに伴う精神症状を呈することはどちらかと言うと「普通」。その緊張を指から自分の意志で抜く技術覚えておけば、少しずつ体の他の部分まで応用出来るようになると信じる。説明は極めて短いで短絡的ですので、私は言いたい事が通じるようでしたら嬉しい。(何時かもと詳しく書きたいが・・・)

図3    こんな光景を描いて心広く緩やかにする

患者様 ・・・

この言葉は最近流行っているように見受けるが、どうも「腑に落ちない」。
* 「腑」は無論五臓六腑の「腑」であって、飲食物が臓器の働きによって「腑に落ちる」=消化されて伝播される。転じてある概念/思考などを十分理解しない/出来ない場合それが「腑に落ちない」。
私は「患者様」と言う表現が「腑に落ちない」。十分理解出来ないし、その使い方にも賛同出来ない。

患者は 「患っている者」であるのみ。
同じく医者は「医者様」ではない!
私の好きな言葉:「医は病を治す工である」(出典不明)
医も患者も普通の人間だ。神様、上様、殿様類ではない。
「医は病を治す工である」 - 私もその通りだと思う。
ならばその延長線で「大工様」で言う?言わないはず。
「八百屋様」???変だ。
お客様 - ま、時代の流れにてそれは何とかなれている。

当然ここに「あからさま」になっている「有様」は日本の社会に於ける上下関係だ。
「上様」では文字でさえそれを指している。
お客様はお金を使って自分の店の商品/サービスを購入するからある程度の「見上げるありがたい存在」かもしれないが、「患っている者」「病を治す工である=医」は先ず同等の人間同士である。適切な「治療」を可能にするため不可欠の信頼関係/人間関係は酷く上下の勾配に影響されると関係者の両方とも酷く歪んだ世界観で正しい見方=判断できなくなってしまうだろう。

時代とともに言葉の意味や使い方が変わってしまうのは承知の上だ。
例えば「貴様は何を考えているか」(今、私の発言に対してそう思う人もいるに違いない)と聞くと今日現在では余りいい気分ではないだろう。

き_さま【貴様】→♪[0](代)二人称。(1)男性がきわめて親しい同輩か目下の者に対して用いる語。また、相手をののしっていう時にも用いる。おまえ。「―とおれとの仲ではないか」「―それでも人間か」(2)目上の者に対して、尊敬の意を含めて用いる。「―は留守でも判は親仁の判/浄瑠璃・油地獄{下}」「(髪ナドヲ)―ゆゑに切る/浮世草子・一代男{四}」〔中世末から近世初期へかけて、武家の書簡などで二人称の代名詞として用いられた。その後、一般語として男女ともに用いるようになったが、近世後期には待遇価値が下落し、その用法も現代とほぼ同じようになった〕

私は患者は患者だ。
患者様ではない。
気をつけないと患者様は治療の妨げになり得るのではないか・・・

何ですか?

本職は鍼灸師だが、生活費は翻訳で稼いでいる。今回翻訳者の立場から2-3点を指摘したい。

 どの分野でも同じだが、専門家しか分からない用語もあり、専門家と一般ン人は違った解釈する用語もある。最悪の場合異なった文化圏の人が同一用語を全く別の形で理解する。当たり前だ。しかし、これを忘れる人は案外に多い。例えば私は自宅で夕食の時「座りましょう」と言えば当然正座の事を指している。故郷で同じ事を言えば当然椅子に腰を掛ける事を意味する。同一人物が同一言葉を使って異なった意味を表す。当たり前の事であっても、使用する言葉を越える情報がない限りに伝えたい意味を正しく理解する事が非常に難しい。

 東洋医学の分野には科学に比べて曖昧な表現が多いから、「使われる用語の意味合を煩い程明記する」事を進めしたい。東洋医学関連文章を翻訳し、良く依頼主から質問も来る:瘀血〔例〕は英語でどう表現するか。海外では西洋医学的立場からアプローチされる事が多く、本来中国語の概念を解釈する可能性は幾つもある。実はこれに関して世界的権威が盛んに議論するところだ。

 東洋医学に関して中国の思想が世界を支配している。同じ東洋医学が日本に於いて1500年にも及ぶ歴史に於いて独自の発想を生み出したのは決して少なくないが、世界に殆ど知られていない。その理由は上記の表現が曖昧さと文章力の貧弱さにもある。「ほら、あれだよ」のような発言は日本に来る前に意識するような形で聞いた事ない。そして、そう言うことを言わざるを得ないのは心を痛めるが、日本語で書かれている専門書や学術論文の表現力が乏しいものが多い(私は言える立場ではない!)。ならば翻訳される日本語の元本が非常に少ない事も驚かない。以前にも指摘した事あるが、日本は東洋医学に関して世界に向けて大事な情報発信地であるべきだと思うから、情報を伝達する「言葉」をもう一度考え直す必要あるだ。

東洋文化の根源

もしかしたら私一人でこの事を思い込んでいるのか。丸きり見当違いかもしれない。

でも多くの人は「腹」が忘れかけてりると思う。

言うまでもないでしょうが、武術は全て「腹」で決まる。力の使い方、バランス、度胸。「腹を決めて」戦闘に挑む。

腹に頼るのは武術だけではない。お茶、書道、舞踊、太鼓、尺八等なども腹から行なわれてないと本物にはならない。当然東洋医学に於いても「腹診」によって病気を診断し、腹の健康は全身の健康の源という考えも太古から伝わって来た知恵だ。古くは松尾芭蕉の『奥の細道』に足三里にお灸を据えて長旅に備えたということが書かれています。その足三里はツボ(経穴)のスーパーマンのような存在であって、胃の経絡に属し、先ず腹を整える効き目がある。

日本語に「腹」に関する言葉は多数あるのは当然ご存知だと思うが、他の言語もどうようだ。例えば、「ガッツ(腸)ポーズ」は小腸や大腸の姿や位置を指しているではなく「力」を表現する。

日本では最高刑が昔如何にも切腹(海外ではこれを間違えて「ハラキリ」として知られている)でした。現代医学において中枢(抹消)神経系及び自律神経系の他に最近「消化管神経系」を別に認めるようになった。

「腹」は多分東洋全体の文化のあらゆる場面に於いて最終的の「決め手」となっているから、私は個人的に東洋文化の根源だと思っている。

先進ヶ国では人間が現代科学技術のお陰で随分と「頭でっかち」になる傾向あるから、精神的不安定になる人も少なくないでしょう。人間の中心(重心)部は頭にあるとその位置は高すぎる。自分の重心=中心は腹にあるべきだ。

今度悩んだり、怒ったり、怯えたりする事があれば、その問題を頭ではなく、腹で解決するような努力して見て下さい。そして、日常生活を通して精神的な安定性を図るため、赤ちゃんの時ちゃんと出来た腹式呼吸をもう一度思い出してください。