Category: 意見・異見

日本語で書かれている意見・異見

病気

「病は気から」と言う慣用語は誰でもしている。あらゆるの病は多かれ少なかれ「気」によるか「気」に影響を受けるのは東洋医学で考えている。
したがって、来院する患者はその「病の気 = 病気」を持って、出来る限り早くなくしたい。その気持ちは良く分かるつもりだ。では具体的には・・・
患者が自分の病の気を治療者に「取ってもらいたい」、言い換えれば治療者に送り込み、その代わり治療者から「元の気 = 元気」、つまり健康である能力を受けたい。
治療者はこの「病の気をなくして、元の気を取り戻す」過程において単なる仲介役(理想的に)ですが、やはり「気をつけない」と病の気の渦に巻き込まれる。つまり、治療者は病の気のゴミ箱のようなものだ。そして、どのゴミ箱は何時かいっぱいになる。治療者は病の気で満杯になってしまえば、治療も出来なくなるし、自分も病気に成る。
 自然界から新鮮な「気」を取り入れて「充電」しないといけない。私はそのため定期的海に行って、生命の母に手を翳していらない病の気を放出してから新鮮な気を頂戴し、海(空、大地など)に感謝する。

メニューなし治療院

時代の流れでしょう。ほぼ全ての治療院/医院は何かの「メニュー」を使っています:治療時間はコース次第5分や10分単位で、それに伴う治療費もまた細かく区切られています。場合によって5円単位。
基本の治療に○○治療手段が追加すれば、あるいは治療時間が通常より何分延長するならばXXX円追加料金が加算されます。

それはきっと「普通」の営業方法に違いありません。

しかし、私は個人的どうしてもそれに賛同出来ません。

来院する者は「病」に「患って」いる「人」=患者です。
その人は部品の集まりではありません:左膝に症状あれば左膝のみに治療するのは修理工場のようです。筋骨の問題でなければ、更に別の工場に訪れる必要あります。それぞれの工場では取り扱う「部品」は「診ます」が、「人」=患者を見失われる危険性あります。

東洋医学は本来「人」を診るものです。
医術に関わる者は「病」に「患って」いる「人」を診るべきです。それは東洋医学だけではなく、西洋医学の父と言われる古代ギリシャのヒポクラテスも同じ事を言いました。伝統医療の職人として私はそれを信じて「メニューなし治療院」を営んでいるつもりです。
可能であれば、患者を「病」から解放に必要な治療手段を全部施し、治療時間の制限も特に設けていません。治療には必要な手段を全部使い、全身を診るため必要な時間をかけます。追加料金は過去30年間に請求したことありません。
この治療方針はこれからも変える意思ありません。

町並みは地域社会のアイデンティティ

(飽くまでも個人的な意見)

「 町並 み」と言う 言葉 はよく聞きます。 自分 の 伝統 を忘れつつある 現代 日本 社会 ではそれを „My town“ と呼ぶ人々も少なからず。旅に出かけて「あの町の 町並 みは綺麗ですね」とか「あの町の 町並 みを見るとほっとする」などの 表現 は 頻繁 に耳にするし、 自分 でも使います。 都会 の嫌いな私には 最近 葉山町におきる 変化 を見ると悲しくなります。ここで 読者 に 大変 申し訳ありませんが少々 愚痴 を溢したい。

 この「 町並 み」は 辞書で見ると「町の道筋に人家 が建ち並んでいる様子。また、そのところ。」と書いてあります。又は〔 動詞 「なむ(並)」の連用 形 から〕(1) 世間一般にごく普通であること。

  町並 みは、特に 本来平凡の漁村であった葉山町、ある 一定 のスタイル、雰囲気、そこに住む人々の「共同表現」として捉えたい。その思考に基づいて「地域社会」が成り立ってくるではないかと思う。日本に於いてその地域社会単位は他の国よりも 綿密に出来ている感じもするし、 日本文化の正体 =ルーツ=根でもある。「元町」= 地域 の「根本、中心 」であり、 住民の原点となる。英語ではこの地域社会は”community”と言い、”common” (共通の,共有の, 共同)と言う意味から由来 する。 同様な意味はcommon place,common sense、unite, unity等に見られる。

 しかし、 最近の町並みはそのような役割 を果たしていないような気がします。「並」は「個人主義」の「波」に飲み込まれ、立ち並んでいる家、特に最近出来ている物はどこの 時代やどこに由来が不明で、本来開放感や通気性を確保するための窓はどちらかと言うと要塞の???に似て来た。開け閉めは出来ないものも多いので、適切に「羽目殺し」となっている。窓が殺された。

日本の長い歴史を通じてこの国の 気候 1)に合う 建築 、そしてそれを支えてきた世界最高峰の技術を持っていた日本 の大工さんは何処風が分からない技術を要しないプラスチック素材 組み立て式の 犠牲 となってしまった。だが暴走はそこ止まらない。「開発」と名乗って町中それこそ「日本」と連想させないマンションが次々と建築される挙句の果てに葉山町らしく狭い道路は高速道路のように広げる計画が実行に移されてきた。

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右に写って新築の家の壁に幾つかの「穴」があいているが、それは私の感覚では「窓」とは言い得ない。大きく開けて、日本の気候にあった形で風通し良くする事もできないし、掃除するのも至難の業でしょう。そして人間を歓迎するような friendly な窓(右上)よりも「銃眼」のように見える。

日本の伝統的な家作り(左上)なら、この国の気候にあった、極めて機能的且つ美しい「和風スタイル」はあったのに!

  日本の文化や伝統を憧れる私にはこのような動きは残念でならない。元々日本人ではないので 本来 の 意味 でここは私の「故郷」ではないかもしれないが、所謂心の故郷であった:小さくて、謙遜な庶民的な町。この心の 拠点にあった自分 の「ルーツ=根」が失いつつある事を感じるのは私だけでしょうか。英語では自分の故郷を無くしたことはいかにも”uprooted”と言う。偶然 か。 

1)  日本 の 気候 と 文明 に関して 清水 馨八郎の「 日本 文明 の 真価 」は 参考 になる。

Scapes

森戸海岸に “Scapes” と言うホテルが建てられた後に、そのホテルに連絡した事ある。ホテルのHPから表現を借用する:「穏やかな海と深い森を湛える」のような場所が好き。本来漁村のままであればなおさらに良いでしょう。鍼灸師として私は特に「自然」や「生態」等の概念に関して頻繁に考えるのは仕事柄でしょう。その観点から貴社のホテルは葉山町の自然環境を少なくとも乱して、若しくは破壊している印象が極めて強いです。もし「calm blue sea and deep green forest」に魅力を感じるようでしたら、どちらにも真四角の形態は存在していない事にも気づいていただければありがたい。貴社のホテルは真四角で灰色/黒、前面殆ど黒のものです。それは「blue sea and deep green forest」と調和する「本質を捉えたデザイン」と本当に信じているのでしょうか。昔の日本建築巨匠の伝統と精神は何処に消え去ったでしょうか。海岸から見れば真四角の黒いコンクリートブロックは眼にも心にも痛々しく写ります。お客さんは中にいるから自分(ホテル)のが見えないで海の眺めを楽しめるため、町民はその何ともいえない姿を耐えなければなりません。「a sophisticated façade, that excites the adult sensibility」:私も一応「成人」のつもりですが、上記の通り私の「sensibility」はどちらかと言えば苦しめられています。車庫に並んでいる殆ど東京ナンバーの高級車でいらっしった方々のsensibility がexciteするでしょうか。それともこの黒いコンクリートブロックは自然界と全く調和しない事を感じないようでしたら、残念の気持ちで嘆きたい。

「世界人類の多くは、今や機械文明というものに噛み殺される。

真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、

人を殺さざるべし」

田中正造

町名の変更

葉山町町長殿

(2002年町長宛のオーペンレターより)

「葉山」を「コン山」( コンクリートの山)へ

私はも18年以上葉山に住み、本来この町大好きでした。輝く海に面して緑の山々な町でした。都会嫌いな私にとっての楽園 でした。

しかし、最近はどうでしょう。

今何年の間に町中に多数のマンションを建設されました。そのいずれも町民の反対の声を無視 している上に、当然のように大規模の自然破壊になりました。今度元町に7階のビルを 建設が始まりました。高層ビルの建設を制限する法律が2002年12月に施行される予定ですので、急いで11月中で着手する手際に感服しかありません。

以前緑豊かの町はまるでカビが生えてくる団地(住宅地で密集する個人宅)埋め尽くされます。子供達の遊び場所は勿論なくなるし、「町並み」は古代 ギリシャ の神殿造り、中世ヨーロッパ風の宮殿、西部劇場の映画セットや現代風と名乗って真四角の灰入るのコンクリートとガラスで出来ている建築物で完全に蒸発 してしまいました。日本風は何処にもありません。日本人は自分の2600年を誇る伝統的な素晴らしい建築技術(木造)及び優れたデザイン(日本建築は 自然環境と調和)の知恵を上記の物の為に棄ててしまうのは恥ずかしくないのでしょうか。

 このような 建築 ブームはで作られた物は関係者が「開発」と名づけられていますが、これが「破壊」発と言うべきでしょう。

そして今までの発展と現在進行中の計画を見ますと、その結論は明らか:

町の破壊

  日本人としてこの町の「破壊」発でよくも恥ずかしくないと私は嘆息せざるを得ません。ここに日本の文化が好きですから来日した私個人の意見を表現するしかありませんが、 同感する人恐らく大勢います。

追加

湘南国際村も上記の「破壊」発の象徴的な例です。これが「国の癌」と称すべきです。

「癌」の語源は古代ギリシャのヒポクラテス にあります。女性患者も大変進行 した乳癌を見て、中心の腫瘍部から周りの組織 への浸潤や拡張 した血管は胸に蟹が座ったように見えたから「カニ」=cancer (癌)と名づけました。

  本来 山があった所に、今「村」となっている 腫瘍 部から四方八方 に建設される 道路を飛行機 から見れば、いかにも「癌」のように見える筈です。そして 現在そこにある 建物は30年後伝統的な日本建築物と違って「立派」や「素晴らしい」などと言われる見込もありません。

自然の「破壊」発が 確実に進んでいます。これを許可する人の責任が問われます! 日本の文化や自然の消滅を嘆く悲しむ外国人より。

自然 - 建築 - 新生物

「自然」とは最近段々と多く耳にする言葉。無論、先に自然の美しさ、恵みなどはでる。地震、洪水などは「災害」とされているが、価値観なく自然の現象です。それを悪者にするのは人間の勝手です。この「自然」は言うまでもない地球全体のことを言う。地球全体は一つの巨大な生物であるという学説も今頃一般化されたでしょう(Gaia theory)。

一つの(多細胞)生物は大きさと無関係複数の細胞、組織、器官などで構成され、それぞれの部分は特定な働きがあるし、限られた機能(権限)がある。ある組織の細胞はその全体の秩序をやぶり、周りとの調和を乱し、単独に増殖し始めるとき、医学の専門用語では「新生物」と名乗る。通常別名の「癌」で呼ばれるものだ。

建築は上記のように地球全体が一つの生態であれば、その中に発達する組織や器官でありうるが、無制限に増殖する細胞のような特徴をもつならば、それは 「地域/社会/地球」 の癌に変身することになる。

周りの街づくりを眺めると、私個人ではどうしても人間の建築行動(特に最近の)、自然と調和とれた生態ではなく、悪性の新生物の増殖にしか見えない。

それは私の辺見/妄想なのでしょうか。

身分・・・

私の意見(異見)は決して普通ではないし、多くの場合常識から外れているので、反論や批判も多い。一つの相違点は服装。

良く「患者様」 - 私はその言葉が可笑しくて、単なる「患者」であるべきだと思う - に敬意を示すために背広、ネクタイ、その上白衣をきるべきと言われる。しかし、私は学者でもないし、上流階級のものでもない。私は肉体労働の職人 - 三流程度 - に過ぎない。よって、その身分にあった服装は極普通のものであって、決して高級ブランド品ではない事。自分の身分にあった服装を着ることは自分自身に対して正直で、患者に実際(実力)と異なる姿を装わない事だと信じている。ご了承頂けたら嬉しい。

私の普段許されざる異見や思い出は昔からブログに書いている → ドイツ人鍼灸師の意見=異見

身を持って

真面目な鍼灸師は患者に施す治療を先ず身をもって体験します。鍼灸師は自分に鍼をしたり、お灸をしたりして、患者に「アドバイス」する運動など自分でもします。そうしてから前述の「先生」=「先に生きる者」役割を果たすようになります。
そして自分はされたくない治療を必要なければ患者にも施しません。
それ故に治療者の治療 - 大きく言えば存在 - は説得力あります。

私は個人的「響く鍼」が余り好きではないので、どうしても必要だと考えない限り患者にも響く鍼をしない方針です。

10年ほど前に自転車の事故で手術を受けることになりました。その体験で術後の状況を非常に良く分かるようになりました。この体験なしで昔病院で行った研究(鍼治療で術後疼痛管理)を行った最中で患者に大変未熟な発言し、姿を見せたのは反省しています。
また、2年前に別の事故でも「身を持って」何が大事かが良く分かりました。
自転車: 地球のため

同じ事は「運動」(→自転車を参照下さい)にも言える。常に患者に運動を進める私は何もしなければ可笑しい。

責任

基本概念の(3):「人間は自分(とその他の生物)の健康状態(命)に対して責任があります。」のような文章を書くと怒られるに違いありませんが、その真実を今もう一回認識する必要があると思います。怪我、感染症、先天性疾患などに関して患者本人が悪いといっていません。
しかし、仕事上で必要ないのに姿勢を悪くしてから例えば肩凝りになってしまうのは本人の責任範囲内にあり、病気の原因を取り除く努力意思が無ければ、鍼灸治療でも治せません。症状が一時的少々改善するのみです。
病気を根本的に治さない(出来るにも拘わらず)で患者を通わせるのは不徳義だと信じています。 

先生って・・・

私は三流の職人しかないのに鍼灸師としていつも「先生」と呼ばれる。
鍼灸師は地元の「先生」= 模範として = 1500年前からこの国で良き「指導者」→「先生」=「先に生きる者」の役割を果たし、住民の健康を守る事に貢献して来たし、これからも継続的それに勤めるすべきと考えている。
国民の知的財産である東洋医学の知恵(常識でもあります)に基づく「指導」すれば、個人の健康と医療費削減を通して社会の健全化に働きかけられると確信する。

先ほどの「先生」と同じ形で「指導」と言う言葉を考えてみれば、次のように捉えられる。「指導」 = 指+導く。赤ちゃんが親の「指」(手全体が大きすぎる)を捕まえて、親に導かれる。「導く」は「道+寸」で出来ている。導くことは相手の手をひいていくべき道を一寸程案内する。先生は今度ここにとどまり、生徒=患者が一人で示された道を進む・・・出来れば最終的もう先生の世話にならなくてよいように。